『コンプレックス文化論(武田砂鉄)』
砂鉄氏の切れ味するどい舌鋒はあまり発揮されず、個々のコンプレックスに関連づけられるタレント系エピソードもやや貧弱だ。
意外にも本人の関心とは、遠いところの企画だったのではないか。
働かざるもの食うべからず、との形容を好みのは曾野綾子だが、その手の話者が、働いていないものを社会不適合者と急いで定めて苦言を呈する姿勢がとにかく嫌いだ。「社会システムに迎合する者が正しい者なのだ」という前提を活性化させようとする表現者を信じたくない。
糾弾するつもりはない、でもみんなにそうだよなって思ってもらいたい
それこそ『情熱大陸』にこの手のジャンルの人間が出ると、「大きい何かではなく、最後には自分を信じる」という方向性でエンディングに急かされる。表現者になる、とはつまり、個でいるということ。課長代理に昇進して今夜はささやかだけどすき焼きよ、と食卓で喜びあう光景から遠ざかるということだ。
「僕は、僕の母の胎内にいるとき、お臍の穴から、僕の生まれる家の中を、覗いてみて、『こいつは、いけねえ』と、思った。頭の禿げかかった親爺と、それに相当した婆とが、薄暗くて、小汚く、恐ろしく小さい家の中に、坐っているのである」(直木三十五「貧乏一期、二期、三期 わが落魂の記」)
<<橋下徹>>
要するに背骨のない軟体動物のようなお調子言論なのだが、
<<篠原かをり>>
自分のアイデンティティの一番が「親が金持ち」になってしまう。
『少女消失』というビデオを見て驚愕したと記している。地面に並べられたいくつもの制服にアルコールがぶっかけられ、1着づつ焼かれていく。
届かなかったのものへの想念がセーラー服として表出している