「暇と退屈の倫理学 國分功一郎」
人間が豊かさを喜べないのはなぜだろうか
人が退屈することを嫌うからである
革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。
人は「打ち込むこと」と「没頭すること」を渇望する。
歴史学は時間を遡るが、系譜学は論理を遡る
彼らは「なんとしてでも何かに苦しみたいという欲望」を持っている(ニーチェ)
消費の対象が物ではない。人は物に付与された観念や意味を消費する。
消費とは観念的な行為である。消費されるためには記号にならなければならない。
ホッブスの自然状態は、
自分の身を守るためには全員が好き勝手しているのを、全員で止めればいい。
自然が人間に与えた「なんでもできるし、何をしてもよい」権利、すなわち「自然権」を放棄し、法の支配をうちたてる。全員で一つの国家を形成し、一つの権威に従うという社会契約(社会契約論)。
「疎外」について、ヘーゲルは肯定的。
人間はいったん自分に固有のものを投げ捨ててこそ、高い理想(共同性、共に生きること)を実現できる。
H・アーレンとにとって、「仕事」は、世界に存在し続けていくものの創造であり、たとえば芸術。
人間は世界形成的である。
人間は世界そのものに関わり、世界そのものを作っていくことができる。
鉱物学者は鉱物学者として生きている。
人間は他の動物同様に環世界を生きているけれども、
その環世界を相当な自由度をもって移動できる。
タバコを吸う人ならわかるだろうが、喫煙の煙は独特の時間を与えてくれる。
人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである。
コジェーヴによれば、アメリカの我慢がなく望むもの全てが与えられる大量生産・消費社会の前で「そこにいるのは動物である」という