『科学の発見(スティーブン・ワインバーグ)』
新聞各紙の書評でも話題になっていた。
理論物理学者で、79年のノーベル物理学賞受賞者スティーブン・ワインバーグ(量子論の統一理論第一歩)の著書。
私は現代の基準で過去を裁くという危険な領域に踏み込む。
本書は不遜な歴史書だ。過去の方法や理論を、現代の観点から批判することに私は吝かではない。
破れた対称性にせよ、破れていないあ対称性にせよ、正しさの証明は実験によって結果を確認することでおこなわれる。そこには、人間社会の出来事にあてはまるような価値判断は含まれていない。
こうしたギリシャの思想家たちを理解するには、彼らを物理学者や科学者だと考えないようがよいように思われる。哲学者とさえも思わないほうがいい。彼等はむしろ詩人とみなされるべき存在である。
ここで言う「詩」とはつまり、自分が真実だと信じていることを明確に述べるためというよりは、美的効果のために選択された文体、という意味である。
「緑の導火線を通して花を駆りたてる力は ぼくの緑の年齢を駆りたてる」というディラン・トマスの詩を読んで、これを植物と動物の力の統一について真面目に述べた分だと考える人はいないし、そこに証明を求めたりもしない。われわれはそれを、「年齢と死をめぐる悲しみの表現」と解釈する。
数学者たちは、「物理学者が書いたものはいらいらするほど曖昧だと思うことが多い」と言う。私のような、高度な数学的ツールを必要とする物理学者としては、「数学者の書いたものは、厳密さに対する彼等のこだわりのせいで、物理学者にとってはほとんどどうでもいいところでややこしくなっている」と感じることが多い。
実を言えば、アリストテレスの著作には、プラトンのそれにはない退屈なところが多いと思う。しかし、アリストテレスの著作には、プラトンのそれが時折見せるような馬鹿らしさは感じられない。
科学の進歩とは、おもに、どんな問題を問題にするべきかを発見することだったのである。
科学の進歩とは、単なる流行の変化ではなく、客観的なものである。運動について、ニュートンのほうがアリストテレスよりもよく理解していたという事実を、あるいは現代のわれわれのほうがニュートンよりもよく理解しているという事実を、疑うことができるだろうか。どんな運動が「自然な」運動かを問題にしたり、あれこれの物理現象の「目的」を論じるのは、いつの時代にせよ無意味なことである。
紀元前323年のアレクサンドロス大王の死とともにアリストテレスはアテネを去り、その翌年この世を去った。マイケルマシューズは彼の死を、「歴史上最も輝かしい知性の時代の黄昏を告げる死」と表現している。確かにそれは古典期の終焉だった。しかしそれは、科学にとっては、遥かに明るい時代の夜明けでもあった。(それだけアリストテレスの“科学的”知見の影響力は大きかった)
プラトンの考察は宗教に満ちあふれている。
神が惑星の軌道を定めた、と『ティマイオス』で述べているし、惑星そのものを神々だと考えていたかもしれない。
『明日の記憶』
2006年、ちょうど新卒で入社した頃か。原作は荻原浩。
この映画の怖さは、アルツハイマーという病気の症状の現れ方を描き出すリアリティにある。ごく普通のことが思い出せない。当たり前のことが出来ないとき、人は焦るのだ。そして、誰もが少なからず(物忘れや会社生活上の失敗)経験があることだけにこれを観る誰もが自分の胸に手を当ててみるのである。
例えば、8社競合のプレゼンで勝って、クリエイティブの奴にも報告してやろう、と受話器を耳に充てるが、、、内容をまとめて話せない。
例えば、客先とおねえちゃんのいる店に行って飲みながら仕事の話をしている時、外タレの名前が全く出てこない。あんなに有名な、、、、トムクルーズ、、、トムハンクス、が出てこない。。。
そして、明らかにおかしい瞬間が。
部下らとランチに連れ立ったとき、ブッフェ形式の店で先に座っている部下達が見つけられない。。目の前にいるのに、手を振る部下に気付けない。名前なんか呼ばれてんのに分からない。
現実を、現状認識から逃れたくて酒を買う。でも、レジで会計を忘れる。シェービングクリームを最近買ったことも忘れて、家に何本もたまっている。。
妻に疑われ、病院にかかると、ミッチー演じる医師から「簡単なテスト」をされる。
あなたの名前を教えて下さい。今日の日付を教えて下さい。今日は何曜日ですか。
いまから言う言葉を憶えて下さい。さくら、電車、ネコ。。。。
20秒後にこの3つがなかなか出てこなくなる。。
アルツハイマー病で、間違いありません。。
(ものすごく取り乱して)
おかしいだろっ!いくつだ!医者になって何年だっ!!
で、衝動的に病院の屋上まで行く。
気がついたら日記を書いていた。
もし、今の自分が消えてしまうなら、書き残さなければならない。
客先とのアポをすっぽかす。
時間に余裕を持って外出したのに、見慣れた渋谷の雑踏で道に迷い、
部下に電話する。
助けてくれ!道に迷った!
やがて妻を見ても、他人のような反応をしてしまう。。。
アルツハイマー病の人間にとって人前でのスピーチなんて、本当に恐怖なんだよな。。
この映画の映像的演出的白眉は、妻(樋口可南子)が頭から血を流す圧巻のシーン。
なぜ彼女は血を流したのか。
画面の中で起こる突然の出来事に、観る側も瞬時には理解できない。
血管でも切れたのか?
しかしそれは、病に挑む二人の夫婦の関係を描く上で決定的な出来事だった。
『パッチギ!』
2004年、井筒和幸監督。
日本では差別され、肩身の狭い思いをしている(朝鮮人)側の、
それでもヘコまされないたくましさとか、健気さとか、力強い魅力を描く。
もはや日本人が失ったかもしれない、男の熱さ。
健気ながらたくましく生きる、美しい女子。
役どころといい、とにかくとにかく沢尻エリカが一番可愛い頃だ。
冒頭、日本人の高校生にちょっかい出された女生徒たちの仇として朝鮮高校のとった報復は烈しい。失うものがなさそうな、青春のこの無敵感には憧れるものがある。
金将軍の軍隊は団結力あるからなー
京都中敵だらけやしなー
高校の、国のメンツをかけた喧嘩、恋愛。
学ランの裏地に「天下統一」、一方は「祖国統一」。
「兄ちゃん、明日戦争行け言われたらどうする〜?」
「無理ですよ〜。学校あるし。
いまや『火花』で神谷役の 波岡一喜もいい味出してる。
キョンジャの純血を護る会の会長です
公園で朝鮮人が祖国に帰るキョンジャ兄の壮行会をしているところに、
ギター1本持ってイムジン河歌いにいく。
『金融腐食列島 呪縛』
97年。原田眞人監督(「ラストサムライ」「日本の一番長い日」)。
原作 高杉良。
後の半沢直樹シリーズにも継承されうるような、
中年ミドルの金融業界痛快勧善懲悪劇。
本店企画部の中年ミドルたちが、銀行トップのボードメンバーたちに直談判。
総会屋対策に立ち向かう銀行員たちの奮闘。
株主総会での対決シーン。
話せないから、自殺したんでしょう。
検察が大蔵を狙う。
ノーパンしゃぶしゃぶが取沙汰されたのもこの頃だったか。
まだ小学生だったんで、よく分からなかったよ。
MOF担は椎名桔平。ここでもいい味出してたな〜。
理を持って上司にたてついたり、
目上の立場にシャーシャーともの言わせる役させたら、
やっぱり桔平ナンバー1だよな〜。
『宇宙を織りなすもの(上) ブライアン・グリーン』
喫煙所でタバコ吸ってたら関連会社の兄ちゃんが、この分厚い本読んでた。
文学ばっかりやってる俺たちも、全然気にならないわけじゃない。
宇宙について。
難しい計算やモデルの解説ぬきで、宇宙や量子について分かりやすくアプローチする。
著者の態度は生粋の文系男である我々にも共感しやすいものだ。
宇宙をより深く理解したところで、人生がより豊かになったり、生きるに値するものになったりはしないというカミュの意見には賛成できないと思った。
子どもの頃、私はよく父とマンハッタンの街路を歩きながら、こんなゲームをしたものだった。父と私のどちらか一方があたりを見回して、その場の出来事をひとつ心に決め、その出来事を別の視点から見たらどうなるかを説明するのだ。「バスが通り過ぎる」という出来事を、バスのハンドルから見たらどうなるか。「鳩が窓の下枠に止まる」という出来事を、飛んでいる鳩から見たらどうなるか。「男性がうっかりコインを落とす」という出来事を、地面に落ちる二十五セント硬貨の立場から見たらどうなるか。それを言葉で説明するのである。難しいけれど楽しいのは、おかしな説明を聞いて、それをどう解釈するかを考えるところだ。---このゲームをすると、世の中をさまざまな視点から見るようになるし、どの視点もそれぞれに正しいことを強く意識するようになる。
光は、私たちの網膜に含まれる化学物質とちょうどよい具合に相互作用して、視覚という感覚を生み出すような特徴を持つ電磁波なのだ。
室温での音波の速度は、秒速約三四〇メートル(この速度の値は、先に登場したエルンスト・マッハにちなんで、マッハ1と呼ばれることがある)
アインシュタインは、光の速度は何に対しても、時速一〇億八〇〇〇万キロメートルという値になると宣言したのである。
空間と時間が相対的だという結論である。空間と時間はそれを見るものによって異なる。---特殊相対性理論が難しいのは、数学が高度だからではない。この理論の考え方に違和感があり、日常の経験に反しているように思われるからなのだ。
物体は、時間の中でも動いていくのだ。
今このとき、私たちの周囲にあるいっさいのものが、時間のなかを情け容赦なく突き進んでいることを告げている。あらゆるものが、ある瞬間から次の瞬間へ、さらに次の瞬間へと、たえず移り変わっているのだ。
ニュートンは、時間のなかの運動と空間のなかの運動とは完全に切り離されていると考えた。つまりこれら二種類の運動は、まったく関係がないと考えたのだ。しかしアインシュタインは、時間のなかを進むことと、空間のなかを進むことには密接な関係があることに気付いていた。
---駐車している車、つまりあなたに対して空間内を移動していない静止している車では、運動のすべては時間内の運動に振り向けられている。静止している車も、その運転手も、道路もあなたも、あなたが身につけている衣服も、時間のなかをまったく同じ速度で、ぴったり歩調を合わせて刻一刻と進んでいるのである。しかし、駐車していた車が走り出せば、その車がそれまで時間内を進んでいた速度の一部が、空間内を進む速度に振り向けられる。バートが進行方向を北から北東に変えたとき、北向きの速度がいくらか小さくなり、その分東向きの速度に振り向けられたように、時間内を進んでいた速度の一部が、空間内を進む速度に振り向けられるために、その車が時間内を進む速度は小さくなるのだ。ここから次の結論が導かれる。車は、時間内を前よりもゆっくる進むため、走っている車とその運転手にとっての時間は、静止しているあなたや他の物体にとっての時間よりも、ゆっくりと流れていることになる。
---どんな物体の運動も、空間内を進む速度と、時間内を進む速度を合わせたものは、必ず光の速度と同じになるのである(空間内を進む運動と時間内を進む運動はつねにお互いを相補的に補っている)。
---リサの時計で三時間が経過するときに、バートの時計では二時間しか経過しないのだ。バートが空間内を大きな速度で進んでいるために、時間内を進む速度のかなりの部分が奪われているのである。
光が特別なのは、空間内をつねに光速で進み、速度のすべてを空間だけに振り向けることだ。
エーテルが存在する証拠が得られそうだというのだ。
特殊相対性理論は重力を考慮に入れていなかった。重力と加速とは等価なのだから、重力の影響を感じている人は、加速しているはずなのである。
(重要なのは、一般相対性理論のおかげで、重力の働くメカニズムが明らかになり、重力の伝達速度が数学的に計算できるようになったのである。)
宇宙がもっているこの性質のことを、「あなたが直接的に影響を及ぼすことができるのは、すぐそばにあるものだけだ。つまり、物理的な影響力はローカルなものである」という意味を強く打ち出して、局所性(ローカリティ)と呼んでいる。
理論と実験の両方から得られた結果は、宇宙には非局所的な結びつきが存在することを強く支持している。
光まで含めて何かが伝わるだけの時間がなくてもー離れた場所で起こる出来事が、互いに絡み合うことが可能なのである。それはつまり、空間はそれまで考えられていたような性質のものではないということを意味する。
「森のなかで倒れる木」という古い話を持ち出して次のように答えた。
もしも誰も月を見ていなければーーもしも「見ることによって、その位置を測定する者がいなければ」ーー月がそこにあるかどうかを知るすべはなく、それゆえそれを問うことにも意味はない、と。
操作を施しても変化しない特徴のことを、物理学者は「対称性」と呼んでいる。
→芸術人類学的観点でも、ずっと私の関心事である、「対称性」。こういう学術分野ごとの言葉の定義や視点を比較して考えられるというのは総合的に学問する人間が享受できる豊かさの一つに違いない。
異なる他の考え方に触れ、相対的に考えてみることが必要になりそうだ。
『宴のあと(三島由紀夫)』
1960年、実在の人物をモデルにした小説とされる。
発表後、訴えられる。
福沢かづ。雪後庵。野口雄賢。永山元亀。選挙参謀山崎。佐伯首相。奉加帳。
(畔上輝井。般若苑。有田八郎。1959年都知事選。日本社会党。岸信介。吉田茂。)
かづは豊麗な姿のうちに一脈の野趣があって、
ミシマの女性形容力。
恋はもう私の生活を乱さない、
この一言で一座の光輝が忽ち色褪せて、水をかけられた焚き火のように、黒い湿った灰がいぶっているのにすぎなくなった。一人の老人が咳をした。咳のあとの苦しげな永い喘鳴が、みなの沈黙のあいだを尾を引いて通った。一瞬みんなが未来のことを、死のことを考えたのが目色でわかった。
おお、この心象言語表現力よ。
車をわざわざ帰らさせてまで歩こうという野口の口調には、何だか倫理的な力があったので、
この、いままで言語を獲得したことがなかった状況に対する説明能力よ。
第一に、野口にいつもきれいな洗い立てのYシャツを着せ、仕立て卸しの洋服を着せるという空想に熱中した。
あたかも漱石が言った「月が綺麗ですね」のような
おしまいにかづはとうとう辛抱し切れなくなって、
「なぜあなたの口から知らせて下さいませんでしたの」
と些かしつこい怨み言を言った。野口は電話のむこうで黙り、ものを引き摺るような間のわるげな含み笑いがまじって、不透明にこう言った。
「要するに、まあ、理由はない。面倒くさかっただけだな」
この返事はかづにはほとんど理解が行かなかった。「面倒臭い」。それは明らかに、老人の言葉だった。
かれらの会話は、いかにも記憶の確かさ精密さを競うことに、重きが置かれ過ぎていた。それをじっときいていると、青年たちが女に関する知識で虚栄心を競っている会話と、どこか似ているような感じがする。不必要な精密さ、不必要な細部への言及、そういうことでまことらしさを確保しようとする慮り。
ミシマの描写でしばしばある。男ってあるある。人間ってあるある。
かづの頭に見事な政治の概念を叩き込んでいた。それは厠へ立つふりをして行方をくらましたり、炬燵に当たって詰め将棋のような相談事をしたり、怒っていながら笑ってみせたり、少しも怒ってないのに激昂してみせたり、永いこと袂屑をいじっていたり、・・・要するに芸者のやるようなことをすることだった。その大仰な秘密くささも情事に似ていて、政治と情事は瓜二つだった。野口の考えている政治には何分色気がなさすぎた。
ときに、人間社会の真理を言い当てる。
かづは野口をも含めて三人の肌に、何だか水気の乏しい共通な感じを抱いた。それは永らく女に触れない肌と似たもので、永らく実際の権力に携わらずにいる男の肌だった。
人間の持つ、艶とか張りにめざといのもミシマ
首相が椅子の起ち居にも、あまり野口を老人扱いにして、手を貸さんばかりにするので、こんな度のすぎた礼儀作法が、古い外交官の誇りに触れた。
ときに、成熟した大人が有するべき礼節や知恵も描かれる。
しかしこの発見はかづにやや煩わしい感じを与えた。
---こんな独りよがりの老人の媚態は、やすやすと回想を未来に結び、
---かづへ背を向けた白髪の頭が、面倒臭そうにこう言った。
「デンドロビウム」 ーp178
まことに人間的、情緒的な夫婦のやりとり。
彼女はどんな種類の論理的情熱も持たなかった。論理は彼女を冷やすだけであった。
いや、ほんっとさすがだわミシマ。
近いうち、も一回読も
『ゴーンガール』
2014年。監督:デビット・フィンチャー 原作:ギリアム・フリン
ベン・アフレック。オザムンド・パイク。
一回目は劇場で、二回目ネットフリックスで。
ストーリーの骨子だけ見つめると、なんてことはないただの“結婚生活の終焉と破局模様”でしかないのだが、それがありきたりの泥仕合にならない。
妻は綿密な復讐を遂行し、夫は策謀の網から逃れる、そんなスリリングな展開になっている。
二人の出会いは印象的だ。
ニックがアプローチする会話は知的でセンスが良く、気が利いていて適度なバカさもある。あまりにナイスな男に映る。
「当てよう。君のタイプは・・
プルーストについて語るようなタイプの男はダメだな。
あいつかな。何事も笑い飛ばすタイプ」
「わざとらしくない人が好き」
プロポーズもひと際象徴的だ(このエピソードとて、エイミーの創作日記なのかもしれないのだが・・)。
母親の出版記念パーティ。『アメージングエイミー』のモデルは娘のエイミーだ。
記者やブロガー達の「結婚について」の質問に答えるエイミー。
輪の中に入ったニックは
「すみません僕からも質問が。記者として質問がしたい」
「ニック・ダンと付き合ってどのくらい?」
「夢のような二年」
「ニックの老いた母親が歌うたびに喜んでくれた ニューヨーク ニューヨーク」
「君は彼に初めてのハサミを贈った」
「ホッチキスも」
「エイミー 君はアメージング(完璧以上)だ」
「頭がいいのに気取り屋じゃなくて」
「僕を刺激し驚かせてくれー」
「読者にとっても興味深い」
「君のアソコは世界一」
一同(笑)
「君はまだ結婚してないとか? 事実かい?」
「未婚よ」
「潮時だな」
中華料理屋で店員が持ってきた白い箱。
開けると最高級のベッドシーツ。
ニックも自分のバッグから同じシーツを取り出す。
「わたしたちって、サイコー!(殴りたいほどステキ)」
「同じものを買うとはな」
出会いから結婚当初までの二人の気持ちの重なり方、燃え上がり方は無論その後の冷えきった夫婦関係を予兆する。誰しもが、幸せの絶頂期にあるときには不安を憶えるものだ。その幸福感は遅かれ早かれ失われるものだ。そして幸福の火が強ければ強いほど、それが失われたときの喪失感や空虚も強く感じられるのだ。
やがて、出版不況でニックがクビに。
家でゴロゴロしてゲームをするようになる。
文句ばっかり言って夫を支配するような妻
夕べは絶望を通り越して、なりたくない女になってる。
私はとうとう気付いてしまった。私は夫を恐れている。
以後は、妻が仕掛けたいくつかの罠。
キッチンのルミノール反応
近所の友だちに刷り込んだ友人交誼
引き上げられた生命保険の掛け金
創作された日記記録
独白は(よって、ハイライトかつパンチラインは)常に妻の側にある。
この子が結婚を救ってくれるだろうか
ニックの目が気になる
私を見るときのあの目
これは、少なからぬ、伴侶や恋人を持つ誰もが感じることではないだろうか。
自らの眠りからふと目を覚ましたときに、傍らに寝る相手が見つめていたとき。
何気なくテレビを見ているときの自らの背中に、投げかけられた視線は一体何を見ようとしているのか。彼女は僕を見て、一体何を考えていたんだろうか。
一言で、しかも無邪気にこの映画の本質を言ってしまおう。それはつまり、
夫婦は一緒に暮らしていても、何を考えているのか分からないっ!
ということなのだ
何も知らない夫が仕事に出掛けるのを待つ
浪費、虐待、恐怖、暴力による危険。
私だって物書きよ
誰もが当たり前に感じている難しさ。
難しいのに足を踏み入れてしまう魅惑の契約。
そうゆうものを舞台にして、特殊や異常を扱えばその当たり前のものの深い考察や奥行きが抱き得るのではないだろうか。
『ナニワ金融道 2巻(青木雄二)』
ここだけ憶えてれば話のネタになる!
ナニワ金融道名シーン10選!
名シーン①
1)キケン運輸の赤名久吉が帝国金融にトラック購入資金に400万つまみたいと
2)400万円の借金で(金利が1年8ヶ月、560万円)の保証人にのれん分けした23歳の若者 背口くん
3)保証人肩代わりをきっかけに赤名に薄利の下請けを断った背口くん。しかし、赤名は夜逃げして、保証人である背口くんが一括返済することに。灰原に対する背口彼女の三宅サンの色仕掛けも
4)一括返済が難しい背口は、「他に保証人いるか〜?」という帝国の要求に彼女の三宅さんと妹を入れる
5)社長の背口くんが怪我して入院、三宅さんが風呂に沈められる
6)風呂での描写 ←名シーンココ!
男にあれこれしてるシーンよりも、水回りを掃除するカットの悲哀。ずっと泣いてるし
「風呂屋の主人が、一度女を追い返し、もう一度自ら戻ってきたら本気って証拠」とか妙なリアリティが光る。女がゴネたり、拒絶する態度が描かれていないことに非常な絶望感が演出される。
ソープで働く女の描写の細部に臨場感。
実際の現場を知らなきゃ書けないディティールに、神は宿った。
つづく
『若者の与党びいき』(9月30日付 朝日新聞)
『記憶あるのは自民ばかり』(平野宏学・習院大学法学部教授)
今年7月の参院選では、朝日新聞の出口調査で、比例区での自民への投票率は18、19歳は40%、20代は43%に達し、20代は他のどの世代よりも高くなりました。
彼らが10代の時に民主党政権への交代がありましたが、その評価は、今に至るまで全くダメですよね。米国には、予期せぬサメの襲来による被害があった街では、現職大統領の支持率が低下したという研究があります。悪いことが起きると、その記憶が政権の評価に結びつくというわけです。民主党政権時には東日本大震災とそれに伴う原発事故がありました。地震は民主のせいではないし、原発を推進してきたのもむしろ自民党ですが、有権者の頭の中では、悪い記憶が民主と結びついている。そう考えると、今の若い世代に自民支持が多いのも不思議ではありません。
「女性が奪われていたものは、実は『時間』ではなく『尊厳』だったのではないか」(10月27日付 朝日新聞)
この日のオピニオン面は、実り多いわ〜。
メディア(報道)がいかに、事態を定型的な判断と切り口で考えているか。それを無批判、無思考な人たちが垂れ流してしまうか。これはさきの大統領選でも同じことが言えるね。メディアや報道に携わる者たちでさえも、その時々のムードや「あって欲しい」方向に、ただ流されてしまったんじゃないか。疑いもはさまずに。
予期していないことが起きたとき、人は立ち止まって振り返る。
「あれ、こんな可能性考えられたんだっけ?」
本件についてある大学教授が「残業時間が100時間を超えたぐらいで過労死するのは情けない」とネットに投降し、炎上(のちに投稿削除・謝罪)したが、このような問題の矮小化も過重労働を中心に報道してきたメディアの影響が大きい。
女性社員は、自身のツイッターに「休日返上で作成した資料をボロクソに言われた、身体も心もズタズタ」「男性上司から女子力がないと言われる」「若い女の子だから見返りを要求される」といった悲痛な叫びを残していた。彼女の自殺は11月上旬に発症したうつ病によるものとされている。過重労働以外にも度重なるパワハラやセクハラが背後にあったことは想像に難くない。だが、本人が証言できない状況でハラスメントを証明するのは難しい。そこがすぐには深堀りできないため、報道が過重労働に集中しているのだろう。致し方ない部分はあるが、もう少し多角的に論じられないものか。
【担当記者が選ぶ 注目の論点】
竹井善明は「『電通女性社員自殺』を単なる過労死にすべきでない理由」 (ダイヤモンドオンライン10月18日)で、電通は昔ほど長時間労働ではなくなっており、「女性が奪われていたものは、実は『時間』ではなく『尊厳』だったのではないか」と指摘する。