『罪と罰 下(ドストエフスキー 工藤精一郎訳)』
わたしは神経質なものですが、あなたのピリっとわさびのきいた言葉にはすっかり笑わされてしまいましたよ。
まったく、科学ですからな、現代は・・・・
鋭い頭脳というものは、すばらしいものだと思います。それは、いわば、自然の装飾、生活の慰めです。
あなたは猜疑心のために、せっかく鋭い頭脳を持っていながら、ものを見る健康な目まで失ってしまわれたのですよ。
ピョートル・ペトローヴィチが
裁判官はあんた方ほど盲じゃないし、それに・・・酔ってもいない、こんな札つきの無神論者、煽動者、自由思想とやらにかぶれているやつらの言うことなんか、信用しませんな。こいつらは個人的なうらみでわたしを非難しているんだよ、ばかなものだから、自分でそれをちゃんと認めているじゃありませんが、・・・さあさあ、ごめんなさい!
すると不意に、奇妙な、思いがけぬ、ソーニャに対するはげしい嫌悪感が、彼の心をよぎった。彼は自分でもこの感情にはっとして、おどろいたように、不意に顔を上げて、じっと彼女を凝視した。すると彼の目は、自分に注がれている不安そうな、痛々しいまでに心をくだいている彼女の視線に出会った。そこには愛があった。彼の嫌悪はまぼろしのように消えてしまった。あれはそうではなかった。彼は感情を思いちがいしたのだった。あれはただ、あの瞬間が来たことを意味したに過ぎなかった。
彼はソーニャを見た、そして不意にその顔にリザヴェータの顔を見たような気がした。
ソーニャ、きみもわかるだろうけど、低い天井と狭い部屋は魂と頭脳を圧迫するものだよ。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチ
わたしがあなたに対してどんなオーソリティがあります?
どうもあなたはあまりに尻っぽを出しすぎますよ、ロジオン・ロマーヌイチ。それからもう一つ、ペテルブルグには歩きながらひとり言を言う人間が、実に多いですね、ほんとですよ。
あなたがいまどんな問題に悩んでいるか、道徳の問題、かな?市民と人間の問題でしょう?でも、そんなものはわきへ押しやりなさい。いまのあなたにそんなものが何になります?
話せば長くなりますがね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ。そこには、さあなんと言ったらいいかな、一つの理論ようなものがあるんですよ。例えば、大きな目的が善を目指していれば、一つくらいの悪行は許される、というような理屈ですよ、一つの悪と百の善行です!
(スヴィドリガイロフとドゥーニャの、部屋での応酬)
「〜それに、誰もあなたを信じませんよ。え、だって何か訳がなくて、娘さんが一人で男一人の部屋を訪れるはずがないじゃありませんか?だから、たとえ兄さんを犠牲にしても、この場合なんの証明にもなりません。暴行ってやつは判定がひどく難しいんですよ、アヴドーチャ・ロマーノブナ」
ぼくがあのけがわらしい、害毒を流すしらみを殺したことか。殺したら四十の罪を赦されるような、貧乏人の生血を吸っていた、誰の役にも立たぬあの金貸しの婆あを殺したことか。これを罪というのか?おれはそんなこと考えちゃいない、それを償おうなんて思っちゃいない。どうしてみんな寄ってたかって、<罪だ、罪だ!>とおれを小突くんだ。
ラルコーリニコフには二つの道しかない。あるいはウラジーミルカ行きか、あるいは・・・それに彼女はラスコーリニコフが虚栄心が強く、傲慢で、自尊心が強く、そして神を信じていないことを知っていた。
自分さえ信じられなくなる(自分の境遇と可能性)人間不信と宗教的不信心。
依って立つところのなさ。
エピローグでの希望。
そして、再生の物語は、また別の話。
『罪と罰(ドストエフスキー 工藤精一郎訳)』
ロージャの母:
でも、ことわっておきますけど、あの方はわたしが書いたよりもいくらかやわらかく言ったんですよ。それがわたしはその言い回しを忘れて、意味だけを覚えているものだから。
母からの手紙を読んで、ラスコーリニコフ:
心臓がはげしく動悸し、考えがはげしく波打っていた。とうとう、この納戸か長持のような黄色っぽい穴ぐらにいるのが、息苦しく窮屈になった。視線と考えが広々としたところを求めた。彼は帽子をつかむと、部屋を出た。
→ここは棺桶か!?
真相ははっきりしている。自分のために、自分の安楽のために、自分を死から救うためにさえ、自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ!愛する者のために、尊敬する人間のために、売る!要するに、これが真相なのだ。兄のために、母のために、売る!
こんなかわいい娘でもどうして犠牲にせずにいられよう!おお、なんというやさしい、しかしまちがった心だろう!
→と、ドゥーニャ(ドゥーネチカ)の優しさを嘆く。
もう一刻の猶予もならなかった。彼は斧をとり出すと、両手で振りかざし、辛うじて意識をたもちながら、ほとんど力も入れず機械的に、斧の背を老婆(アリョーナ・イワーノブナ)の頭に振り下ろした。そのとき力というものがまるでなかったようだったが、一度斧を振り下ろすと、急に彼の体内に力が生まれた。
→俺は凡人か?天才か?の自問の向こうに、本当に殺ってしまった男。後からやってきたばばあの妹・リザヴェータも勢い余って殺す 。
ぼくは貧しい病身の学生です。貧乏にうちのめされている男です。
ex.自分も生活苦しいのに葬儀費用を出してやるって、ラスコーリニコフみたいなことを。。
「ちがうわ、嘘じゃない!・・・」とドゥーネチカはすっかり冷静さを失って、叫んだ。「あのひとがわたしの人格を認めて、尊敬してくれる、という確信がなかったら、わたしは結婚しないわ。さいわいに、わたしはそれを確認できます、今日にもよ。このような結婚は、兄さんの言うような、いやしい行為じゃないわ!」
ロージャの書いた論文ついて、ポルフィーリーにかく語りき:
人間は自然の法則によって二つの層に大別されるということです。つまり低い層(凡人)と、これは自分と同じような子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料であり、それから本来の人間、つまり自分の環境の中で新しい言葉を発言する天分か才能をもっている人です。それをさらに細分すれば、・・・第一の層、つまり生殖材料は、一般的に言うと、保守的で、行儀がよく、言われるままに生活し、服従するのが好きな人々です。第二の層は、みな法律を犯しています、その能力から判断して、破壊者か、もしくはその傾向をもつ人々です。これらの人々の犯罪は、むろん相対的であり、千差万別です。彼らの大多数は、実にさまざまな形において、よりよきもののために現在あるものの破壊を要求しています。
ポルフィーリーは:
例えば、ある男なり青年なりが、自分はリキュルゴスかマホメットだなんて思いこんで・・・むろん、未来のですがね、ーーいきなりあらゆる障害を排除するなんていいだしたら、どうでしょう・・・
(「天才であるなら困難な状況を飛び越えてみせろ!」と、これは現代風な宗教網執型のテロリストだ)
*ポルフィーリー:予審判事。
「じゃ、実際に天才的な人々は」とむずかしい顔をして、ラズミーヒンが尋ねた。「つまり人を殺す権利をあたえられている連中だな、彼らは他人の血を流しても、ぜんぜん苦しんではならないというのかい?」
「ならない、どうしてそんな言葉を使うんだ?そこには許可もなければ禁止もないよ。犠牲をあわれに思ったら、苦悩したらいい・・」
「そこらの未来のナポレオンじゃないのかい、先週例のアリョーナ・イワーノヴナを斧でなぐり殺したのもさ?」ととつぜん隅のほうでザミョートフが言った。
→「選ばれた人間には法律なんてカンケーない」の論文は、当時のサンクトペテルブルグでもなかなかセンセーショナルに捉えられたようだ。
*ザミョートフ:警察署の事務官。ラズミーヒンの友人。
『男はつらいよ 25 〜寅次郎 ハイビスカスの花〜』(1980年)
リリーシリーズ。
博が、亀戸でリリーとバッタリ会って話す。
「それで、あの人どうしてる?寅さん。」
「私も旅暮らしよ。寅さんと同じ。」
おばちゃん・つね
「ちょっと私、御不浄行ってくる」
お店休んで、水元公園行こうとしてたとらやご一行。
そんなところに帰ってきたとら。間が悪いとやら、なんとやら。
「これからみんなで水元公園行こうかって矢先に、厄介者がバカ面下げて帰ってきたってわけか」
「 行くなって言ってんじゃねえだろっ!行きゃあいいだろ!」
って、寅が帰ってくるといつもこんな具合。 そんな折に、沖縄のリリーから頼りが。
「 私、いま病気なの。もいっぺん寅さんと会いたかった、それだけが心残りよ。」
沖縄?そこどこってんだ?
どこで汽車乗り換えりゃいーんだ?
よう!何かいい考えないか?
早く考えろよ!
「乗らないっつうもんは乗らないんだから。。
乗らないっつーの!!」
飛行機が怖くてしょうがないが、飛び乗って沖縄へ。
看病してやる。
「あ、こりゃどうもご一統さん」
「ばか野郎!堅気の衆が本気にするじゃねーかっ」
「ビール冷えてるかいっ?」
「うん。お風呂行っといで」
リリーとの幸せな夫婦(みたいな)生活。
水族館で働く若い女の子と親してしてる寅に妬くリリー。
「今日はどうしてんのかしら?あの男」
「てめえたち、出来てやがんなこの野郎っ」
で、朝起きたら内地に戻るって書き置きしてたリリー。
ふたたび、とら屋で。。
「リリー、俺と所帯持つか?..」
「俺いまなんか言ったか?」
『男はつらいよ 23 〜跳んでる寅次郎〜』
小学校で書いてきた、満男の作文。
寅屋の恥、っておじさんに言われた寅は北海道へ。
車で来た男に親切にされ、白昼車の中で襲われそうになってたお嬢さん(ひとみ=桃井かおり)に、「だから、言わんこっちゃない。見知らぬ男に気やすく声をかけちゃいけないよっ」てんで。
東京に戻り、結婚式から逃げ出しちゃった花嫁はウェディングドレスのまま柴又のとら屋に。「わたしね、逃げてきちゃったの結婚式」
タコ社長はお見合い。
結婚式にお見合いで会ったのと違う女がやってきたので聞くと、
「お見合いの写真は妹です」って
「あ、ひとみちゃん。窓開けて空眺めてごらん。お月様に笠かかってるよ」
さくら「結婚し損なった二人が、改めて恋愛しなおすなんて..」
式で花嫁に逃げられた男が、親の会社を辞め、安アパートでカップラーメンすすってる。そんなところに逃げた花嫁の女がやってくる。
「ねえ、キスして。。。。。うぐ...。ネギ食べちゃった。」
再び、とら屋の面々が中心になって、下町で開く結婚式。
「私はいま、邦夫さんの幸せについて考えてます」
「自分ではなく、人の幸せについて考える。寅さんは、それを私に教えてくれた」
わたし、寅さんのこと一生忘れない。
「北の国から 98 時代 (前編・後編)」
蛍が金を借りに歩いていた。
雪子のところに突然現れて、
「おばさん、今お金いくら持ってる?」
昇太兄のところにも訪れてきて、牛舎で交わす
「やっぱ話すな。オラ、口軽いぞ。。喋って楽になれ」
昇太兄は事業を大きくし、農業の工業化、大規模化を押し進める。
隣りの畑に疫病が出たとしたら、「オラんとこの畑に疫病さ伝染すな」とプレッシャーをかけてくる。
正吉の蛍へのプロポーズは、
百万本のオオハンゴンソウ。
純「妹だぞっ!たった一人の。。妹だぞ..」
とすぐウィスキーを取り出しグラスに注ぐ。
五郎に二人の結婚を報告。急なことだけど。
あまりの驚きとかけめぐる思いに、口がきけない五郎。
やがて皆をおいて、家の扉の内側に入りむせび泣く。
蛍と正吉の結婚祝いの盃してるところに、
「畑に疫病が出た。。」って泣きながら妻が。
「俺の畑に、疫病伝染す気かっ」、てトラクターの上の昇太兄は鬼の形相。
「お腹の子は、正吉の子じゃない」
クリスマスの季節に久しぶりにシュウと会う。
いいムードになったので、休憩に誘うと「純に任せる」と。
数少ない街のモーテルは車で順番待ちだった。
過疎の町にも賑わいが。。みたいな純のナレーション。
純はスナックで草太にまた農業やろうと誘われ、断る。
最近の草太兄ちゃん、おかしいよ。仕事を大きくするのに熱くなり、金の話しかしなくなった。
そんな矢先に、トラクターの事故。
「純は、俺にとって弟だ。だから自分は、心配だ。」
純「蛍、正吉のこと、、、ほんとに好きなのか?」
蛍「好きよ。だって正ちゃん、大きいんだもん」
束の間、五郎は蛍と二人暮らし。
(父親としては、娘が嫁ぐ前の束の間の時間。娘から感謝され、いたわられ、でも別れを前提にした限られた時間で、あまりにも幸せな期間なんだろうなこの時間って)
五郎の石の家で、布団に入りながらの二人のシーン。
「そっちの布団に行ってもいい?」
「母さん、言いたかったんだよ。父さんの方が素敵なのに、どうして礼なんか言うんだって」
「父さんは、素敵です。」
「父さん。父さんのこの匂い、ゼッタイ忘れない」
「父さん、お兄ちゃん、おばちゃん。蛍は、勝手ばかりしてきたけど、父さんたちのことを忘れたことはありません。ここで暮らした八つからのこと、ほんとによかったって思います。出来るなら蛍は、あの頃の蛍にもう一度戻りたいって思ってます。これからは正ちゃんと仲良く暮らします。父さん、ほんとにありがとうございました。」
結婚式で美保純が流す、草太のスピーチ練習テープ。
エンディングは中島みゆきの時代。
実に壮大な偉大な歌だ。
『銀の匙(中勘助)』
とにかく、子ども時分の思いや考え方をここまでよく覚えているな、と思う。
幼い頃からもの心つくまでの主人公(否、これは筆者そのものだ)の心情を、みずみずしくごう自然な文章で綴られる。
主人公は、体が弱く育ちの遅れた神田っ子。
甘えん坊の幼少期。周囲の人間はおおらかで優しさかった。
私のようなものが神田のまんなかに生まれたのは河童が沙漠で孵ったよりも不都合なことであった。近所の子はいずれも神田っ子の卵の腕白でこんな意気地なしは相手にしてくれないばかりかすきさえあれば辛いめをみせる。
四角い字こそ読めないが驚くほど博覧強記であった伯母さんは殆ど無尽蔵に話の種をもっていた。おまけにどうかして忘れたところは想像でいい按排につづけてゆくことに妙も得てるのであった。そうして侍であれ、お姫様であれ、それぞれの表情と声色をつかって、しまいには化けものの顔までしてみせるのが行灯のうす暗い光に照らされて真に迫ってみえた。
私はそのじぶんから人目をはなれてひとりぼっちになりたい気もちになることがよくあって机のしただの、戸棚のなかだの、処かまわず隠れた。そんなところにひっこんでいろいろなことを考えてるあいだいいしらぬ安穏と満足をおぼえるのであった。それらの隠れがのうちでいちばん気に入ったのは小抽出の箪笥の横てであった。
お惠ちゃんとの二人遊びの数々。
次の日にはお祖母様に手をひかれて玄関まで暇乞いにきた。私はいつもの大人びた言葉つきでしとやかに挨拶をするお惠ちゃんの声をきいて飛んでも出たいのを急に訳のわからない恥ずかしさがこみあげてうじうじと襖のかげにかくれていた。お恵ちゃんはいってしまった。
「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」
という。私より以上の反感を確信をもって彼らの攻撃をひとりでひきうけながら
「きっと負ける、きっと負ける」
といいきった。そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに座りあらゆる智慧をしぼって相手の根拠のない議論を打ち破った。
が、鬱憤はなかなかそれなりにはおさまらず、彼らは次の時間に早速先生に言いつけて、「先生、□□さんは日本が負けるっていいます」
といった。先生はれいのしたり顔で
「日本人には大和魂がある」
といっていつものとおり支那人のことをなんのかと口ぎたなく罵った。それを私は自分が言われたように腹に据えかねて
「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでしょう。日本に加藤清正や北条時宗がいれば支那にだって関羽や張飛がいるじゃありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を送った話をして敵を憐れむのが武士道だなんて教えておきながらなんだってそんな支那人の悪口ばかり言うんです」
兄はその年ごろの者が誰しも一度はもつことのある自己拡張の臭味をしたたかに帯びた好奇的親切。。
お友だちはふりかえりふりかえりしてたがしまいに立ちどまってくたびれたのか、気分でもわるのか と親切にたずねたので正直に
「波の音が悲しいんです」
といったら兄は睨めつけて
「ひとりで帰れ」
といった足をはやくした。お友達は私の意外な返事に驚きながらも兄をなだめて
「男はもっときつくならなければないけない」
といった。
ある日のことまたそんなにして川のなかに立ってたとき私は足もとにあるまっ白な石を拾おうとして身をかがめた。それを兄はじきみつけて
「なにする」
といった
「石をひろうんです」
「ばか」
私はもういつものように恐れなかった。こないだから考えて考えて考えぬいてある。
「兄さん」
私は後ろからしずかに呼びかけた。
「兄さんが魚をとるのに僕はなぜ石をひろっちゃわるいんです」
兄は
「生意気いうな」
と怒鳴りつけた。私は冷ややかに笑ってまともに兄の顔を見つめながら
「僕のいうことがちがってるなら教えてください」
兄は
といって手をあげた。私は黙って垂れさがった枝のさきにびくをかけ崖をあがって帰りかけたが、うす暗い木の蔭にここんでるのを見ると急に気の毒になり、あんなにいうけどきっとやっぱし寂しいんだろう とおもって岸のうえから一所懸命によんだ。
「兄さん、兄さん、居てあげましょうか」
兄は知らん顔して網をそろえている。
「さようなら」
私は丁寧に帽子をとってひとりで家へ帰った。それから私たちは決していっしょに出かけなかった。
私の何より嫌いな学科は修身だった。
銀の匙 (岩波文庫) | 中 勘助 |本 | 通販 | Amazon
『影裏(沼田真佑)』
今日の 芥川賞受賞作発表の前に上げておくんだった。
先ほど、深夜のニュースで作者と受賞作の短評を聞く。
「震災小説」と説明されていた。
記者会見での質問にあったのだと思うが、「自分は岩手に住んでいるので、禊のつもりで書いたつもりが、ないわけではない」という回答だけ切りとられていた。
作者の声も、気持ち苛立ちの感じを含んでいたように感じたのは気のせいだろうか。
なるほどう。そうか。そう言い表されてしまうのか。
確かに、作中に津波に関する描写もあり、そのことが登場人物に直接影響してくるわけだが、その人物の大きなものの崩壊(カタストロフ憧憬みたいなもの)に繋がっていく部分はあるのだけれど、その4字で表されてしまうことの簡単さ
というか便利さ(それはあたかも原発が簡単に取り出せる電力であるかのように)に抵抗を覚えた。変な話だが、そう称されてしまうことでこの本はある程度の認識を抱かれて売れないのだと思う。
我々「勝手に芥川賞選考会」でも、受賞作の一つとして推された作品(もう一つの青春小説「星の子(今村夏子)」とダブル受賞ではあったが)。
釣りを通じて親交した、「何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすい」日浅という男の謎めいた不気味さと不確かな友情(あるいは恋慕)を描いた作品だ。
そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた。
どんなことを喋ったのだったか、初めて交わした会話の内容はおろか、その印象さえ、わたしは忘れてしまっている。
けれどこうした親密なつき合いのうちにも、日浅のそのある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向はいっこうに薄れる気配がなかった。
現にようやく目的の釣り場に到着しても、頭上高くにひろがる杉の穂に、竿先が触れない程度には注意を払いながらも、内心はまったくうわの空であるらしい。黙っていると、このまま延々と日浅は水楢や、ほかにもまた橡や白柳といった愛着深い倒木の追想に耽り釣りどころではなくなってしまう。
→改めてここの描写なんて書き写して思う。こんな人間やゔぁいわ。精神構造、崩壊してるかも。。。
自分の川を発見したのは五月だった。
アパートから、自転車でも十分足らずの近距離に流れる里川である。
→そう、主人公はとにかく釣りにのめりこむ。首都圏からの転勤を言い渡され、釣りが全ての生活になってしまっている。それくらい釣りには魅力があるんだ。コミットしてしまうものなんだ。中国人も古い諺で言っている。「一生を楽しみたいなら、釣りを覚えなさい」みたいな。
雨の日に遊園地に出かけるような、心もとない気持ちを抱えて、わたしがこの川原に到着したのは六時過ぎだった。
→こうした不安げで不穏なイメージをまとう比喩や表現はそこかしこにあった。
その日は朝からめずらしいたよりが連続してあった。岩手への異動が本決まりになった二年前、気詰まりな対話を重ねた末に別れてこの方音信がなかった副嶋和哉から、パソコンにメールが届いた。
→読者は誰もがこのあたりで一回「?」が点滅。もう一度読み返して、つき合っていた相手が男であると知る。しかも、副嶋という男。これを暗示ととってもやむかたないか。
「すまねえが、今野よ」電灯の加減で額ばかり白く、まるで目の表情がわからなかった。「互助会、入ってくんねえだろうか。一口足りねえんだ」
ここで口早に日浅が語ったところを要約すると、半期で六十口のノルマがあるのだが、これに達していないらしい。今月すなわち本日じゅうにあともう一口契約を得なければ雇用を切られてしまうのだという。
「いや、やめとこう。やっぱり」酒を置き、かわりにわたしはシェラカップを手に取った。中に三分の一ほど飲み残していたコーヒーはすっかり冷めて弛緩しており、香りも何もなかった。
「帰らなきゃならないんだ。明日は出勤になったから」
言いながら口ごもってしまい、それでこの嘘は見破られてたはっきり感じた。鮎の焼ける匂いがつんと鼻についた。
「課長、死んじゃったかもしれないよ」
まず口の中のデニッシュを、わたしは全部呑み込んだ。この人のいう課長とは、現実のあの、五十がらみの課長職にあたる人物ではない、日浅典博のことなのだ。
ふと凄まじい揺れを、足もとから全身に感じて立ち上がり、思わずいったん、顔を空に向ける。テトラポッドを軽くひと舐めするように、黒々と濡らして消える波の弱音を聞く。この数十センチの小波はしかし、あの大津波の第一波なのだ。
→ここは「あの日早朝から家を出て、午前中は契約を求めて釜石市内の住宅地を回り、〜した日浅が」 と神の視点であの日の日浅が描かれる部分。
巨大な海水の壁だとわかったときにも、日浅の足は動かない。却ってその場に釘づけになる。まじろぎもせず、目ばかり大きく見開かれるのに決まっているのだ。そしてその瞬間、ついに顎の先が、迫り来る巨大な水の壁に触れる、いつも睡眠不足でくたびれたような、その最後の瞬間まで、日浅は目を逸らすことなどできないだろう。
「あの男と縁を切る決意を固めてくれたわけですから」
取りつく島がないとはこのことだろうと、内心わたしはうなっていた。息子を勘当した以上、それは父親として意地があるのも当然だった。しかし今度の場合は例外だろう。日常的な感情は一切留保するべきじゃないかと思い、食い下がった。
「あのばか者のためにどなたの手も、わたしは煩わせる気は起こらんですよ」それにお言葉ですが、と日浅氏は続けた、息子なら死んではいませんよ。
ただ、どうもわたしとのあいだに見えない建具が、一枚も二枚も挟まっている、何といいますか、徹頭徹尾隔たりを感じるのすね。
息子はといえば一心不乱に何やら数をかぞえあげながら、爛々と目を輝かせて彼女たちを下から見上げているんです。おぞましいものを感じましてね。力づくで息子を抱えあげ、さっさと公園をあとにしたのを覚えてますよ。思えばあれが、息子との隔意の遠因でしょうかね、わたしが息子を、明確に不気味だと感じてしまったことが。
「いずれにせよ何らかの事件で、あの男の名前は新聞に出ますよ。わたしは確信しています」
→異常な殺意や犯罪意識を抱えた人間ってのはこの世の中に存在するんだと思う。親がなんと言おうがどう育てようが、子に芽生えてしまったその火は消せない。圧倒的な悪意が特定の人間に巣食うとき、犯罪は必然になる。
全編に漂う、雨の日、川辺の湿った陰鬱なイメージがつきまとって離れない。
不穏さと不気味さで一気に読ませてしまうその力量は、新人賞受賞にふさわしい。
「震災文学」と言われてしまうと、それで分かってしまった気になる。
そんな批評には、ただ抗いたかった。
『戦場に立つということ(2016年9月6日付 朝日新聞オピニオン面)』
デーブ・グロスマン(戦場の心理学専門家)
戦場に立たされたとき、人の心はどうなってしまうのか。国家の命令とはいえ、人を殺すことに人は耐えられるのか。
「米陸軍のマーシャル准将が、第二次大戦中、日本やドイツで接近戦を体験した米兵に『いつ』『何を』撃ったのかと聞いて回った。驚いたことに、わざと当て損なったり、敵のいない方角に撃ったりした兵士が大勢いて、姿の見える敵に発砲していた小銃手はわずか15〜20%でした。いざという瞬間、事実上の良心的兵役拒否者が続出していたのです。」
「発砲率の低さは軍にとって衝撃的で、訓練を見直す転機となりました。まず射撃で狙う標的を、従来の丸型から人型のリアルなものに換えた。それが眼の前に飛び出し、弾が当たれば倒れる。成績がいいと休暇が3日もらえたりする。条件付けです。刺激ー反応、刺激ー反応と何百回も射撃を繰り返すうちに、意識的な思考を伴わずに撃てるようになる。発砲率は朝鮮戦争で50〜55%、ベトナム戦争で95%前後に上がりました」
『相手の話、聞こうよ(2017年4月18日付朝日新聞)』
小泉純一郎さんには2002年2月の予算委で鈴木宗男氏の疑惑を追求した時、「よく調べているなと感心した」と答弁いただきました(笑)。敵ながらあっぱれと。違う立場でも対話は成り立ちます。
ところが安倍さんは、質問にまともに答えないことが多い。最近も、今年2月の予算委で、〜。
指摘された事実を無視し、ひらすた思い込んでいることを繰り返す面もあります。
次に私が聞いたのは、銀行からの自民党の借金額でした。私が「実質無担保で100億以上」という実態を暴露すると、首相は「(党の)経理局で詳細にやっております」と逃げました。国民の目に癒着の構造が明らかになったと思います。
不安げな注目。ありがとうございます。何でこんなジャージーみたいな着物の人がここに、とお思いでしょう。
ーーー相手を知るってどういうことか。たとえば、自分が思っていることを言われると、気持ちがほぐれるものです。「不安でしょう」と気遣われると、「こいつ、わかってんな」と。どうです?