ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

寄稿:『理解できぬ世界は悪か(角田光代)』

会社サボって、「万引き家族」観れてよかった。

朝日で2回(6/8、6/25)、読売で1回(6/7)、大きく紙面を割かれた。

各記事を並べたいと思う。

 

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幼児を虐待する親は極悪人だと思っているし、万引き常習犯は病んでいるのだろうと思っている。自分が彼らと同じ人間だと思うことは怖い。だから線引きせずにはいられない。 

 

よく理解できないこと、理解したくないことに線引きをしカテゴライズするということは、ときに、ものごとを一面化させる。その一面の裏に、側面に、奥に何があるのか、考えることを放棄させる。善だけでできている善人はおらず、悪だけを抱えた悪人もいないということを、忘れさせる。善い人が起こした「理解できない」事件があれば、私たちは「ほら悪いやつだった」と糾弾できる。

 

 

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是枝監督は以前から、現代のメディアが陥りがちな「分かりやすさ至上主義」に警鐘を鳴らしていた。彼の映画も、説明しすぎないことが特徴になっている。

だって、世の中って分かりやすくないよね。分かりやすく語ることが重要ではない。むしと、一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えていかねばならない。僕はそう思っています

 

 

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あたし楽しかったからさ、こんなんじゃお釣りがくるくらいだよ。

あんたマエがあるんだから、5年じゃきかないよ。(作中より)

 

父ちゃんさ、おじさんに戻るよ。

 (作中より)

 

 

『道徳どう教えれば(2018年6月26日付 朝日新聞)』

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そこで私の授業では、教科書にあるお話を結末まで読まず、子どもたち自身に結末を考えてもらう「中断読み」という手法を実践しています。

 

ところが、初めから結末を読むとどうなるか。子どもは教科書の結論が絶対正しいと考えがちで、教員から意見を求められても、「教科書に合わせた答えを言わなくては」と忖度してしまう。(宮沢弘道さん)

 

公教育で大切なことは、すべての子どもたちが自由に、生きたいように生きられる力を育むことです。そのためには、互いの自由もまた認め合う必要がある。哲学ではこれを「自由の相互承認」と言います。どのようなモラルを持っていても、それが他人の自由を侵害していない限りは認め合う。このルール感覚こそ学校で育むべきです。

 

ところが道徳の学習指導要領では、ルールは「守ること」になっています。

日本では、「ルールは与えられ、条件に従うもの」と考える人が多いですが、本来は多様なモラルを持っている人たちが、互いに自由に生きられるために作り合うものです。(苫野一徳氏)

 

 

 

『古典百名山 ジャン=ポール・サルトル』

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サルトルは、「神の不在」を率直に全面的に引き受けた最初の(西洋の)思想家だったからではないか。彼は、「王様は裸だ」と叫んだ少年だ。〜〜〜。しかし、サルトルは「神はいない」と叫び、そこから出発した。

 

 するとどうなるか。人間には、神から与えられた目的も意味もない。だから人間は自由だ。いや自由であるほかない(「自由の刑に処せられている」)。ここから、『存在と無』の最も重要な命題、対自在性(意識をもった存在、つまり人間)は「それがあるところのものではなく、あらぬところのものである」が出てくる。

 

 私は定まった意味や同一性もなくまず存在しており、自由な選択を通じて、未だあらぬ何者かになるほかない。「実存は本質に先立つ」(『実存主義とは何か』)も同義である。

 

 アンガジュマン(政治参加)という考えもここから導かれる。私たちは皆状況に巻き込まれているわけだが、それは、「状況を受け入れた」ということをも含めて、私たちの自由な選択の所産である。とすれば私たちは状況に責任があり、それに積極的に関与することができるし、すべきだ。

 

『中国 儒学思想を政治に(中国人民大学教授 康暁光)』

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2018年6月20日付け 朝日新聞

「彼らは米国映画を好み、米国人のような服装を来ていますが、深層の考え方はたいへん儒学的で、個人主義的な傾向はあまり見られないのです」 

 

「ある調査で『個人は独立した主体。誰も他人の道具、手段になってはならない』、『社会は調和させる必要がある。家庭、社会抜きに個人は存立しない』のどちらを選ぶか聞くと、大半は後者でした。中国社会は儒学的なのです」

 のどちらかを選ぶか聞くと、大変は後者でした。中国社会は儒学的なのです。

 

例えば、車で人をひいてしまったとする。その人を救助して、すぐに病院に連れて行き、相手の家を慰問する。よく話し合って問題を解決する。これがかつての当たり前の姿です。今は違う。事故が起きれば保険か裁判で解決。自分自身は何もしない。自らの良心に従って行動することがない

 

儒学は公共領域の思想です。国家の政治を論じたもので、私人としての生き方を論じたものではありません。〜〜〜。だから、儒学に基づき、多くの人々が公共生活にかかわるべきなのです。

 

 

 

 

 

 

『刑務所しか居場所がない(山本譲司)』

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6月30日付 朝日新聞の書評である。

小生は実際にまだ読んではいない。

書評だけで落涙した。

 

「俺たち障害者は生まれたときから罰を受けているようなもんだ。だから、罰を受ける場所はどこだっていいや。また刑務所ですごしてもいい」

 

本当にこんな世の中でいいのだろうか。

あまりにも、しがない。切ないじゃないか。

 

購入した。

 

 

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36歳サラリーマン、キューバに行く。

『空気の研究(山本七平)』

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「それは簡単なことでしょう。まず、日本の美徳は差別の道徳である、という現実の説明からすればよいと思います」

 

私は簡単な実例をあげた。それは、三菱重工爆破事件のときの、ある外紙特派員の記事である。それによると、道路に重傷者が倒れていても、人々は黙って傍観している。ただ所々に、人がかたまってかいがいしく介抱していた例もあったが、調べてみると、これが全部その人の属する会社の同僚、いわば「知人」である。ここに、知人・非知人に対する明確な「差別の道徳」をその人は見た。これを一つの道徳律として表現するなら、「人間には知人・非知人の別がある。人が危難に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりあいになるな」ということになる。この知人・非知人を集団内・集団外と分けてもよいわけだが、みながそういう規範で動いていることは事実なのだから、それらの批判は批判として、その事実を、まず、事実のままに知らせる必要がある、それをしないなら、それを克服することはできない。私がいうのは、それだけのことだ、と言った。 

 

みなはそうしているし、自分もそうすると思う。ただし、私はそれを絶対言葉にしない。

 日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じ手おり、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、”口にしたということが不道徳行為”と見なされる。

 

そして米軍という相手は、昭和十六年以来戦いつづけており、相手の実力も完全に知っていること。いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知・不見識・情報不足による錯誤は考えられないことである。

 

「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。

 

 

人はそれを感ずるから「空気」と表現したに相違ない。従って、この空気に対抗して論争した論説を、その空気が消え去った後で読むと、その人びとが、なぜこんなに一心不乱に反論していたかが、逆にわからなくなってくる。

 

 

一方明示的啓蒙主義は、「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ーーー「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追い込んでしまった。戦艦大和の出撃などは“空気”決定のほんの一例に過ぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて“空気”決定なのである

 

 

周恩来曰く「言必信、行必果」(これすなわち小人なり)

「やると言ったら必ずやるサ、やった以上はどこまでもやるサ」で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の“空気”に支配されて、右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は「言必信、行必果」的小人だということになるであろう。

 

 

だが非常に困ったことに、われわれは、「言必信、行必果」的なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである。

 

われわれの社会は、常に絶対的命題をもつ社会である。「忠君愛国」から「正直者がバカを見ない社会であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、この絶対性にだれも疑いをもたずそうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じつづけてきた。

 

天皇制」とは何かを短く定義すれば、「偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」となろう。天皇制とは空気の支配なのである。

 

 

「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネー...」といったことが「飲み屋の空気」で言われることになり、そこで出る結論はまた全く別のものになる。日本における多数決は「議場・飲み屋・二重方式」とでもいうべき「二空気支配方法」をとり、議場の多数決と飲み屋の多数決を合計し、その多数で決定すればおそらく最も正しい多数決ができるのではないかと思う。

 

聖書とアリストテレスで一千年鍛錬するとアングロサクソン型民族ができるといわれるが、

 

少なくとも明治時代までは「水をさす」という方法を、民族の智慧として、われわれは知っていた。

 

日本とはそれで十分な世界であった。そしてこの世界の仮装の西欧化には大きな危険があるのは当然であった。

 

 

 

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『蹴飛ばせ、幕引きパターン(朝日新聞編集委員 高橋純子)』

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毎回楽しみにしている、朝日新聞 高橋純子さんの政治断簡。


切り口、切れ味、横道と脇道、嫌悪と皮肉がないまぜになって政権を批判する。

権力や権威に対する批評性と、その志と高い見識からくる教養を感じる。

朝日新聞にはこういう人がいるから(記事がある)、嫌いになれない。

 

 

「いつまでやってんだ音頭」や「再発防止節」、はたまた新曲「国民栄誉賞だヨおっ母さん」が大音量でかけられ、正当な批判はかき消される。

 

 

空想してみる。国会の議論がもし、手話で行われたら。「私や妻が関係していたら」はどう表されるか。「贈収賄」は「文脈」から読み取れるか。副総理はちゃんと「ごめんなさい」が言えるか。官僚はそれでも上手にウソをつくのだろうか。

 

 

 

この「言葉」が壊れた貧しい世界を、どうすれば蹴飛ばすことができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

『西部邁さんを悼む -絶えず問うた 生への覚悟-(佐伯啓思)』

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佐伯啓思

西部さんが絶えず問いかけたのは生への覚悟であった。お前は何を信条にして生きているのか、それを実践しているのか、という問いかけであった。

 

その意味で、彼ほど、権力や権威や評判におもねることを嫌った人を私は知らない。

 

 

あらゆる社交の場に彼が求めたのは、場をわきまえた礼儀や節度である、公正の感覚であった。決まりきったような党派的意見や個人的な情緒の表出をもっとも嫌っておられた。そしてそれをわきまえぬ者に対する批判の手厳しさは、時として場を凍りつかせることはあっても、正しいのは常に西部さんなのである。

 

 

西部さんは、チェスタントの次の言葉をよく口にしていた。

「一人の良い女性、一人の良い友、ひとつの良い思い出、一冊の良い書物」、それがあれば人生は満足だ、と。

 

 

 

『武器としてのITスキル』

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問題解決において、「Where - Why - How 」の手順を適切に踏むことはコンサルタントやマネジャーの腕の見せ所であり、論理思考力に加えてセンスや経験が求められる箇所。人間の付加価値は課題設定にあり。

 

では、AIが真似できない人間のクリエイティビティとは何なのでしょう。端的にいえば、それは「過去の延長線上にない解」です。