『相手の話、聞こうよ(2017年4月18日付朝日新聞)』
小泉純一郎さんには2002年2月の予算委で鈴木宗男氏の疑惑を追求した時、「よく調べているなと感心した」と答弁いただきました(笑)。敵ながらあっぱれと。違う立場でも対話は成り立ちます。
ところが安倍さんは、質問にまともに答えないことが多い。最近も、今年2月の予算委で、〜。
指摘された事実を無視し、ひらすた思い込んでいることを繰り返す面もあります。
次に私が聞いたのは、銀行からの自民党の借金額でした。私が「実質無担保で100億以上」という実態を暴露すると、首相は「(党の)経理局で詳細にやっております」と逃げました。国民の目に癒着の構造が明らかになったと思います。
不安げな注目。ありがとうございます。何でこんなジャージーみたいな着物の人がここに、とお思いでしょう。
ーーー相手を知るってどういうことか。たとえば、自分が思っていることを言われると、気持ちがほぐれるものです。「不安でしょう」と気遣われると、「こいつ、わかってんな」と。どうです?
『メディア真っ二つ?(7月13日付 朝日新聞オピニオン面)』
大石裕・慶応大教授(ジャーナリズム論)
読売新聞の前川・前文部科学事務次官の「出会い系バー」を巡る報道は、政権とメディアが保つべき一線を超えた、大きな問題を持つものでした。
一方で記者側は書きぶりを工夫するなどして一定の緊張関係を維持してきた。
メディアの価値観と論調は今なお、互いに似通っている。分かりやすい例が沖縄の米軍基地を巡る問題でしょう。
読売新聞が「政府寄り」で朝日新聞が「沖縄寄り」、という大きな違いがあるイメージがある。ただ記事を分析すると、ともに沖縄の負担軽減を主張しながらも、日米関係の重視という点は共通し、基地問題解決についても具体論はない。負担軽減に向けて政府は「丁寧に進めるべきだ」と言うか、「寄り添って進めるべきだ」と言うか、その程度の違いしかありません。
新聞記者は社会から独立して権力を監視していると自負しますが、実際には読者の平均的な意見から大きく離れられていない。「総中流幻想」による同質性の高い社会の内部で対立しているにすぎない。
『不便は手間だが役に立つ』
川上浩司(京都大学デザイン学ユニット特定教授)
10年ほど、不便がもたらす便益「不便益」を研究しています。昔は良かったという懐古趣味でも、何でも不便にすればいいという考え方でもありません。考察から得た結論は「主体性が持てる」「工夫ができる」「発見できる」「対象系を理解できる」「俺だけ感がある」「安心できる・信頼できる」「能力低下を防ぐ」「上達できる」。
省力化や手間いらずの商品やサービスは、提供する側の考えの押し付けとも言える。
全自動洗濯機は自分好みの洗い方をしようとすると、急に操作が煩雑になる。
世の中の多くの人は、便利さのかげで失っているものの大きさを、薄々は感じていると思います。「利便性が高いもの(こと)は、いいもの(こと)だ」という考えを、そろそろ見直しませんか。
「不便は手間だが役に立つ」のですから。
『暴走する忖度(7月7日付 朝日新聞朝刊オピニオン)』
金田一先生、この春列島を一世風靡した「忖度」についてかく語りき。
深い。言語学者としてあまりに政治家の言葉についての批評性がある。
このテーマでこういう人選ができるのもさすが編集者といった脱帽感。
朝日新聞はオピニオン面がほんとに面白いんですよね〜。。
下の人がやるだけではだめで、上の人がそれをきちんと感じ取ることで、忖度が成り立つわけです。
日本語は状況依存型の言語です。同じ言葉でも、使われている状況や文脈で意味が変わる。「お水、いいですか」だけでは、「水をください」なのか「水はもう必要ないですか」なのか分からない。誰が誰に対して、どんな状況で言っているかがわかって、初めて意味が明確になります。
言葉にあいまいな部分が大きいので、言語化されたな状況や文脈を察するという小さな「忖度」を日常的にやっているわけです。
自然言語はあいまいにできているのが普通です。それが成熟した言語なんですね。
いまの政治の言葉づかいは、安倍晋三さんが典型ですが、わかりやすすぎる。あの人、国会でヤジを飛ばしますよね。ヤジというのはすごくわかりやすい。蓮舫さんも、わかりやすい言葉しか使わないから、すぐ口喧嘩みたいになってしまう。
わかりやすい言葉で政治が語られるのには用心しなけきゃいけない。トランプさんの言葉はとってもわかりやすいけれど、すごく危なっかしいでしょう。
本来、政治家の言葉というのは、解決が難しい問題にかかわるから、あいまいになるはずなんです。安倍さんのような単純な言葉だと、白か黒かになってしまって、複雑な利害が調整できない。
そう。だから政治家が妙にわかりやすい易しい言葉で説明を始めたら疑わなきゃならない。「こいつ、私たちを騙してるんじゃないか?」って。一般の人が、それに気付くのって至難。そこで大切なのは、客観的態度と批判的まなざし。
やっぱりそれってメディアでしょ。
いまの政治の言葉は幼稚になっている。政治家は分かりやすい言葉だけで語り、マスコミはわかりやすい言葉だけを伝え、国民もわかりやすい言葉しか受けつけない。
もう一度読通してからふと立ち止まってみる。
日常生活のなかで相手の理解を重視するがあまりに、「分かりやすさ」や「端的さ」を過度に追求し過ぎて、損なっている部分がないだろうか。自分に問いかけてみる。
『知性の顛覆 日本人がバカになってしまう構造(橋本治)』
7/9付朝日新聞朝刊「著者に会いたい」での新作新書、著者インタビューで橋本治。
<「自分のアタマで考えたいことを考えるためにするのが勉強だ」ということが分かると、そこで初めて勉強が好きになった>
反知性主義を読み解いていくなかでたどり着いたのは「不機嫌」「ムカつく」という感情だ。ムカつく人たちに納得してもらう言説を生み出さないと<知性は顛覆したままで終わり>だと指摘した。
一方、「知性」と同居していたはずの「モラル」が失われていったとみる。
テーマは「父権性の顛覆」だ。
例えば、自民党と小池百合子小池百合子・東京都知事との関係を、「夫」と夫に反発した「妻」と読み解く。
「自民党は基本的にオヤジ政党だから父権性の権化。『それって嫌よね』という家庭内離婚みたいなもの」。小池氏の人気の背景には、「そうよね」という中高年女性たちの共感があるとみる。
この人の言葉には、個人的な葛藤と思考の後に獲得したような知性がある。
本というメディアは、そういうものと出会えるから(著者が出し惜しみしていなければ)魅力があるんだよねやっぱり。
『星の子(今村夏子)』
「第三回 勝手に芥川賞選考会」を来週火曜(7/18)に控え、全候補作品を読みました。
今回はノミネート4作品と例年に比べて候補作品が少なかった。
2017年上期 候補作品
今村夏子さんは前回の『あひる』に続き、ノミネート。
この人は、感性や生理の部分で社会とうまく折り合っていない、生きにくい人間(特に、子ども)を中心に描く作品が多い。
今回のタイトルも「星の子」とな。まあ、あまりに無邪気で、大人を困らせる子どもが出てくるんだろうな、とか予測するだけで思いやられるわ。
父は、生まれてまもない我が子について抱える悩みを、会社でぽろっと口にした。たまたま父の話を聞いた同僚のその人は、それは水が悪いのです、といった。は?水ですか?水です。
父がもらってきた水は、湿疹や傷に効くだけではなかった。両親とも、この水を飲みはじめてから風邪ひとつひかなくなった。飲み水や調理用としても万能で、砂糖もみりんも入ってないのに、ほんのりと甘いのは、水自体が生きているからなのだそうだ。
次第に軽い吐き気がこみ上げてきたのは、まーちゃんの飲んでいるぶどうジュースのにおいのせいかもしれなかった。それは何度も借りるはめになった落合さんの家のトイレのにおいに、似ていなくもなかった。
「えーっ。だってあのときまーちゃん包丁持っておじさんのこと刺そうとしてたじゃん」
「うん、自分でもわけわかんなかった」
「おじさんびっくりしたと思うよー」
「おじさんとふたりで作戦考えてるときはうまくいくと思ったんだけどね…」
土曜日、殺されたくないばっかりに三時に駅の改札へいくと、すでにひろゆきくんは待っていた。
わたし、さっき、キスされそうになったんだ!と気がついたのは、家の近所の見慣れた児童公園の前まで歩いて戻ってきたときだった。吐き気がこみ上げてきて、危うくドーナツとメロンソーダを戻しそうになった。
気分が落ち着くまでベンチに座ってやり過ごし、家に帰ってすぐにお風呂に直行した。お風呂場のなかで、なぜか涙がぽろぽろでてきて止まらなかった。そのとき、ずっと前にまーちゃんと交わした会話がよみがえった。ねえ、キスしたことある?
ここ数年での雄三おじさんとの交流といえば、小学校と中学校の修学旅行の費用をだしてもらったときに、お礼の手紙を書いて送ったくらいだ。
バン!と南先生が両手で教卓を叩いたのと同時にわたしは顔を上げた。
先生はまっすぐにわたしの顔を見ていた。
みんなの視線がわたしに注がれていた。
「・・・今までがまんしてきたけど、さすがにもう限界だ・・・」
先生はいった。
「・・・あのな。いいか?迷惑なんだよ。その紙とペン。まずその紙とペンをしまえ。それからその水。机の上のその変な水もしまえ」
「待ってるほうがいいよ。じゃないとまたお互いにいったりきたりで一生会えなくなるかもよ」
といってさなえちゃんは笑った。
「なんでそういうこというの?」
「え?」
「一生とか、おおげさなこと・・・」
さなえちゃんはきょとんとした顔で「ごめん・・・」といった。
「ごめん」とわたしもあやまった。「ごめんね、じつはここにきてから全然お母さんとお父さんに会えてなくて」
(宗教の合宿で長いこと親に会えずに心細くなっているところでの会話。合宿の前に、親戚からは高校は家から離れて、叔父の家から通わないかと誘われていた)
→子どもってどこかで親に棄てられたときのことを、一緒に暮らせなくなったときのことを想像しては不安になるものだ。
最後には、父親と母親と落ち会い、星を見に行くシーンはほっこりとした安堵と、これが家族団らんの名残を楽しんでいるのではという淋しさとが同居する、いいシーン。
なお、本物の選考会は、7月19日(水)午後5時より築地・新喜楽で開催之予定です。
『男はつらいよ 〜寅次郎相合い傘〜』
この「男はつらいよ」と超絶バッドエンド系のハリウッド作品を交互にみて、ブログアップしてる辺りが文科系ブログのダイナミクス。世界観が違い過ぎてクラクラします。
ちょうど、映画終って劇場から出てきたらまだ昼間で、渋谷の雑踏を行き交うにどうしようもねえ大衆通りを目の当たりにして「やれやれ」みたいに思うくらいに。
旅先でバッタリ、というのはフーテン寅の特権だ。
今回はあのリリーと再び。
「これか?二年前くらいかな。俺と訳ありの女よ」
「きゃ〜、あんたあれから何してたのよ」
一緒に旅してた、パパこと家出サラリーマン(船越英二)と三人で宿に泊まると、
「わあ〜、あったかいわパパの足。気持ちいい」
って自分の足をパパの足に突っ込む。
後からやってきて、パパが御礼に持って来てくれたメロンが、自分の分なかったことに怒る。怒り方が子どもじみていて、実に寅さんらしい笑いどころ。
「どうせ俺はね。このうちじゃ、感情に入れてもらえない男よ」
とか散々文句云う。
博「なんだか情けないなあ」
寅「養子はだまってろっ!」
「バカ野郎!メロンなんか食いたかないよ!」
「決まってんだろう。あのうす生意気な女が」
「だって、寅さんが風ひいて寝込んだら、私つまんないもん」
と、仲直りは相合い傘で。
『レボリューショナリーロード(2008 サム=メンデス)』
人生にとって、退屈って最大の驚異。
誰もがみんなそんな状態からは逃げたくてしょうがない。
さらに、それが夫婦関係であったならば。夫婦それぞれが人生において「退屈。」と感じるようになったならば。
これは、そんな「人間の退屈」という意識と空間に差し込まれる悪夢のような映画かもしれない。
サムメンデス映画のお決まりパターンは、会社を辞めると決めた人間がフッキレて開放感に放たれる状態を撮られていく。アメリカンビューティーもそう。でも大抵その後でしっぺ返しに見舞われるんだけれど。
一見、仲睦まじく幸せそうに暮すアメリカの中流階級の夫婦。
思えば、この二人は当時二十代でキラッキラッだったタイタニックコンビの二人だ(気付くの遅過ぎ)。そんじゃこの映画。あの空前のラブストーリーの続編的ムードをまとうのか?と思うと、そうは問屋が下ろさない。
妻エイプリルはかつて女優をめざしていた。
何者かに変われると思っていた。しかしいまは二児の母だ。
いま苛まれているのは「子どもが生まれた者は落ち着いて生きるべきだ」という幻想。幻想をふっ切り、新しい人生を歩むべく、パリ行きを夫に提案する。
「人生を真剣に生きる、ってことなら、どんなにイカれてても構わないっ!」
ご近所さん夫婦の望みを聞き入れ、精神科に通う息子フランクを家に招き入れることに。彼は物語の(主人公夫婦の間の)不穏の預言者そのもの。好き勝手に話すのを許すことになる。
「母さん、みんなの未来を感じ取って黙ったらどうだ」
妻が新たに子を身ごもったことと夫の仕事も評価され始めたことをきっかけにパリでの新しい生活を断念せざるを得ないだろう、と夫がそう決めはじめた頃。妻は穏やかでなくなった。
「いいから、ここでして。ねえ早くっ」って仲良い友だち夫婦のダンナとケイト=ウィンスレット。
そしてこの映画のもう一つの大きなテーマ。夫婦の意識の距離(あるいは、喧嘩について)。
夫婦が何かについて話し合うとき、相手に誠実であろうとすればするほど、じっくり向き合い過ぎてしまうことがある。人間の感じることや、漠然とした情緒的な部分って言葉で説明なんてできそうもないことも多い。いちいち、誰かと共有するのがしんどいことだって少なくないだろう。
例えば、責められてる方は、逃げ場を失くして、頭がおかしくなりそうになることだってある。そういうときは、逃げ場を用意してやることである。
ある朝の夫婦の会話で。 妻は仲良い夫婦の男と、両夫婦で飲んだ帰りの車でやった翌朝。夫はつい最近やった浮気について告白する。
「別にこう何でもかんでも話し合わなくても、何でも受け容れて生きていけるでしょ」
これですよこれ。この映画の本質的な部分。これぞパンチライン。
精神科に通う、近所夫婦の息子(フランク)のみが、この状況の本質を突いてくる。
「あんたがそんな調子だから、だんなは子どもを作るくらいしか男を証明するすべがなかったんじゃないか」
と、人の家にまで来てサイテーな一言。
映画至上最悪の夫婦喧嘩。
「この際、ちゃんと云っといてやる!堕ろしてしまえばよかったんだっ!」
翌朝、世界が変わったかのような”最高の朝食”をとって、その昼、エイプリルは中絶する。かなりのバッドエンド。
前評判や事前情報なく、「タイタニックコンビの映画」ということで、映画館に行ったカップルにとっては卒倒寸前、ハリウッド映画の奥深さというものを感じざるを得ない一作になったことだろう。