ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

『宴のあと(三島由紀夫)』

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1960年、実在の人物をモデルにした小説とされる。

発表後、訴えられる。

初の「プライバシー権」対「表現の自由」の対決だった。

 

福沢かづ。雪後庵。野口雄賢。永山元亀。選挙参謀山崎。佐伯首相。奉加帳。

(畔上輝井。般若苑。有田八郎。1959年都知事選。日本社会党岸信介吉田茂。)

 

 

かづは豊麗な姿のうちに一脈の野趣があって、 

 ミシマの女性形容力。

 

 

恋はもう私の生活を乱さない、

 

 

この一言で一座の光輝が忽ち色褪せて、水をかけられた焚き火のように、黒い湿った灰がいぶっているのにすぎなくなった。一人の老人が咳をした。咳のあとの苦しげな永い喘鳴が、みなの沈黙のあいだを尾を引いて通った。一瞬みんなが未来のことを、死のことを考えたのが目色でわかった。

おお、この心象言語表現力よ。

 

 

車をわざわざ帰らさせてまで歩こうという野口の口調には、何だか倫理的な力があったので、

 この、いままで言語を獲得したことがなかった状況に対する説明能力よ。

 

第一に、野口にいつもきれいな洗い立てのYシャツを着せ、仕立て卸しの洋服を着せるという空想に熱中した。

あたかも漱石が言った「月が綺麗ですね」のような

 

 

おしまいにかづはとうとう辛抱し切れなくなって、

「なぜあなたの口から知らせて下さいませんでしたの」

 と些かしつこい怨み言を言った。野口は電話のむこうで黙り、ものを引き摺るような間のわるげな含み笑いがまじって、不透明にこう言った。

「要するに、まあ、理由はない。面倒くさかっただけだな」

この返事はかづにはほとんど理解が行かなかった。「面倒臭い」。それは明らかに、老人の言葉だった。

 

 

かれらの会話は、いかにも記憶の確かさ精密さを競うことに、重きが置かれ過ぎていた。それをじっときいていると、青年たちが女に関する知識で虚栄心を競っている会話と、どこか似ているような感じがする。不必要な精密さ、不必要な細部への言及、そういうことでまことらしさを確保しようとする慮り。

 ミシマの描写でしばしばある。男ってあるある。人間ってあるある。

 

 

かづの頭に見事な政治の概念を叩き込んでいた。それは厠へ立つふりをして行方をくらましたり、炬燵に当たって詰め将棋のような相談事をしたり、怒っていながら笑ってみせたり、少しも怒ってないのに激昂してみせたり、永いこと袂屑をいじっていたり、・・・要するに芸者のやるようなことをすることだった。その大仰な秘密くささも情事に似ていて、政治と情事は瓜二つだった。野口の考えている政治には何分色気がなさすぎた。

ときに、人間社会の真理を言い当てる。 

 

 

かづは野口をも含めて三人の肌に、何だか水気の乏しい共通な感じを抱いた。それは永らく女に触れない肌と似たもので、永らく実際の権力に携わらずにいる男の肌だった。

 人間の持つ、艶とか張りにめざといのもミシマ

 

 

首相が椅子の起ち居にも、あまり野口を老人扱いにして、手を貸さんばかりにするので、こんな度のすぎた礼儀作法が、古い外交官の誇りに触れた。 

ときに、成熟した大人が有するべき礼節や知恵も描かれる。

 

 

しかしこの発見はかづにやや煩わしい感じを与えた。

---こんな独りよがりの老人の媚態は、やすやすと回想を未来に結び、

---かづへ背を向けた白髪の頭が、面倒臭そうにこう言った。

デンドロビウム」 ーp178

 まことに人間的、情緒的な夫婦のやりとり。

 

 

彼女はどんな種類の論理的情熱も持たなかった。論理は彼女を冷やすだけであった。

 

 

いや、ほんっとさすがだわミシマ。

近いうち、も一回読も

 

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