「遅いインターネット (宇野常寛)」(2)
吉本隆明について、現代の哲学者や思想家の論評を求めている。
市井の巨人としてありがたがられてきた彼の著作は読んできたが、
反核異論など、心からは納得できない部分もあるからだ。
キーワードは「自立」。
あらゆる共同幻想から自立するべし、と云う。
自己幻想は自分自身に対する像。自己像、SNSのプロフィール。
対幻想はあなたと私。SNSのメッセンジャー。夫婦親子的な、性愛的な対幻想。
共同幻想は集団が共同する目に見えない存在。SNSのタイムライン。
自己幻想の肥大した人間はFacebookに依存し、対幻想依存者はLINEに、共同幻想に同化する人間はTwitterに粘着する。
自立の思想は、学生たちをイデオロギーから解放し、日本的な企業人として社会の歯車となるその背中を押した。
国家と国民の間に親子関係を結ぶ。
国民たちは同じ親(国家)をもつ兄弟姉妹となる。
この二種の幻想の組み合わせによって、対幻想が共同幻想に拡大される。
この操作を担ったのが古代における宗教であり、現代においてはイデオロギーだった。
「他人の物語」への感情移入から、就職・結婚・労働・育児といった「自分の物語」への回帰でもあった。(イデオロギーからの自立が)
→企業や団体など職場の共同体に埋没し、歯車に(思考停止と共同体への埋没)
集団主義的な企業文化は、イノベーションの可能性を自ら摘み取る非創造的な体質
「妻子を守る」ことを免罪符にして会社組織における思考停止を自己正当化
日本という文化空間における市民の主体的意識の欠如
「空気」、ボトムアップの暗黙の合意形成、社会的なコミットメントの責任を決して引き受けることのない「無責任の体系」
近代的市民として自立せよ
吉本隆明「大衆の原像」を織り込むべきだ。
大衆の担う社会の「本音部分」(=企業が家庭を下支えするボトムアップの大衆原像(経済)からは自立できなくなってしまった)」
1980s 自己幻想を用いた「自立」のプロジェクト
消費社会の個人をエンパワーメントする→消費による自己幻想の強化
↑ 反発:埴谷雄高「資本主義への無批判な加担だ!」
成熟像
社会では鈍感さを装って個を殺して歯車やネジのように生き、その一方で家庭からたとえ世界は認めなくても私にとってあなたは価値があると承認されることで満たされる。戦後日本において支配的になった成熟像は社会からクリエイティブティを確実に消失させた。
「ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア」
・今日の「ほぼ日」は、事実上のECサイトだ。
・ソーシャル疲れ「モノと接する時間は希少な誰ともつながらない時間」=コト消費
・ほぼ日が売っているのはモノだけでなく、その商品の背景に存在する物語(コト)
糸井の「政治的ではない」という政治性(脱政治性)
「いいね」とは共同幻想に半ば接続された対幻想だ。
選挙やデモといった非日常への動員ではなく、
日欧の労働の延長戦上に政治参加の回路を開くことでポピュリズムのもつ祝祭性を相対化する試みでもある。
現在のインターネットは人間を「考えさせない」ための道具になっている。
インターネットは発信に値するものをもっている人間はほとんどいないことを証明してくれた。
スロージャーナリズムと遅いインターネット
「他人の書いた記事に対して、後出しジャンケン的にマウンティングすることがインターネットのインタラクティブ性ではない」
いまの「速すぎる」インターネットに流されると、それは素手で触れているだつもりで、単に考える力を失ってしまうことになる。