ここがパンチライン!(本とか映画、ときどき新聞)

物語で大事なのはあらすじではない。キャラクターやストーリーテリングでもない。ただ、そこで語られている言葉とそのリアリティこそが重要なんだ!時代の価値観やその人生のリアリティを端緒端緒で表現する言葉たち。そんな言葉に今日も会いたい。

「ぐるりのこと(20108年、橋口亮輔監督)」

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木村多江リリーフランキーが夫婦役。

 

木村多江が、すこぶる美しい。

すっと鼻筋が通った、古来日本人らしい美しさ。

このとき37歳。

 

石川佳純にも共通するカテゴリの美人。

流行や俗物に浮かされない、自分を持ってる女性の魅力。

前に下北沢で知り合った仲のよい女性編集者を思い出す。

 

 

 

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幼女殺して食べた異常犯罪の被告役・加瀬亮の雰囲気がすごい。

「食べた!」 

まさに和製エドワート・ノートン(言ってるの俺だけだけど)の本領発揮。

 

 

 

寺島進のみそ汁に、ツバ吐いて入れたとんかつ屋の息子 笑

キッチンの人を敵に回さないように気をつけよう。。 

 

 

「私が死んだら泣く?残念?」

 →妻は、いつもへらっとしている夫が肝心の感情を出さないことに不満(不安)を抱いていた。感情を見せて欲しい。一緒に泣いたり、怒ったりしてほしい。

 つまり、いつも隣にいて、一緒にいても(会話があり、冗談を言い合っていても)人間は何を考えているのかはわからないということなのだ。

 

 

家の中に出た蜘蛛を殺すのを嫌がる妻

 

妻が塞ぎ込む重く、苦しい年月の描写。

やがて、描くことが癒しに、救済になっていく。

 

 

 

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風呂場で妻が、リリーのチンポを握るシーンがいい。

夫婦仲睦まじく、温かい。

 

 

深い悲しみ明け暮れた後、絵を描くことで自己治癒し、

日常に戻る女性のカタルシスと寄り添う男の甲斐性。

 

原作が小説だからか、深い洞察がある。

 

「アイリッシュマン(2019年Netflix、監督:マーティンス・コセッシ)」

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このキャストだ、視る方だけじゃなくって撮る方もコルレオーネファミリーを下敷きに想像力が連想する。ゴッドファーザーへのオマージュはいたるところに。

 

乾いた殺し(殺しは明るくあっけらかんと...これはNetflixの様式だな)。

娘たちの父への憎悪。

半分開かれたドア。

 

フランク(デ・ニーロ)の回想シーンから始まる。

老人ホームみたいなところで年老いたフランクが口を昔を思い出している。

哀愁や後悔めいたものはない。

70年代のアメリカンミュージックに乗せて、悪くない、軽快な語り口だ。

 

 

死体をウッドチッパーで庭に散らして捨てる。

殺しがキッチュで現代的(いい意味で遊んでる)

 

ケネディが撃たれたとき、皆でパフェ喰ってた。

生活の中の歴史的できごと。

 

国旗を半上げにするところを、全上げにした。

 

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刑務所でフィッツに会った、トニー・プロ。

 

ジミーがペギーと踊るシーン。

 

「この結婚は、若いの場でもある」

 

 

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「フランク、俺たちは手を尽くした」

 

 

 

✴︎出演者たちを若返らせる、ディエイジングという最新技術も使用される。

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イタ飯屋のパントリー越しに、暗黙の諦めろ。

 

 

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ドアを少し開けておいて。

 

 

 

 

「遅いインターネット (宇野常寛)」(2)

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吉本隆明について、現代の哲学者や思想家の論評を求めている。

市井の巨人としてありがたがられてきた彼の著作は読んできたが、

反核異論など、心からは納得できない部分もあるからだ。

 

 

吉本隆明

キーワードは「自立」

あらゆる共同幻想から自立するべし、と云う。

マルクス主義やナチズムなどのイデオロギーから。

 

 

自己幻想は自分自身に対する像。自己像、SNSのプロフィール。

対幻想はあなたと私。SNSのメッセンジャー。夫婦親子的な、性愛的な対幻想。

共同幻想は集団が共同する目に見えない存在。SNSのタイムライン。

自己幻想の肥大した人間はFacebookに依存し、対幻想依存者はLINEに、共同幻想に同化する人間はTwitterに粘着する。

 

 

自立の思想は、学生たちをイデオロギーから解放し、日本的な企業人として社会の歯車となるその背中を押した。

 

国家と国民の間に親子関係を結ぶ

国民たちは同じ親(国家)をもつ兄弟姉妹となる

この二種の幻想の組み合わせによって、対幻想が共同幻想に拡大される。

この操作を担ったのが古代における宗教であり、現代においてはイデオロギーだった。

 

「他人の物語」への感情移入から、就職・結婚・労働・育児といった「自分の物語」への回帰でもあった。(イデオロギーからの自立が)

→企業や団体など職場の共同体に埋没し、歯車に(思考停止と共同体への埋没)

 

集団主義的な企業文化は、イノベーションの可能性を自ら摘み取る非創造的な体質

 

 

「妻子を守る」ことを免罪符にして会社組織における思考停止を自己正当化

 

 

丸山眞男

日本という文化空間における市民の主体的意識の欠如

「空気」、ボトムアップの暗黙の合意形成、社会的なコミットメントの責任を決して引き受けることのない「無責任の体系」

 

近代的市民として自立せよ 

 →戦後民主主義も別の共同幻想である。

 

吉本隆明「大衆の原像」を織り込むべきだ。

大衆の担う社会の「本音部分」(=企業が家庭を下支えするボトムアップの大衆原像(経済)からは自立できなくなってしまった)」

 

 

1980s 自己幻想を用いた「自立」のプロジェクト

消費社会の個人をエンパワーメントする→消費による自己幻想の強化

 

↑ 反発:埴谷雄高「資本主義への無批判な加担だ!」

 

 

成熟像

社会では鈍感さを装って個を殺して歯車やネジのように生き、その一方で家庭からたとえ世界は認めなくても私にとってあなたは価値があると承認されることで満たされる。戦後日本において支配的になった成熟像は社会からクリエイティブティを確実に消失させた。

 消費社会下の日本では政治の代わりに経済が、イデオロギーの代わりに同調圧力が人々を埋没させ個を抑圧する装置だったのだ。

 

 

吉本隆明から糸井重里へ。

「ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア」

・今日の「ほぼ日」は、事実上のECサイトだ。

・ソーシャル疲れ「モノと接する時間は希少な誰ともつながらない時間」=コト消費

・ほぼ日が売っているのはモノだけでなく、その商品の背景に存在する物語(コト)

 

糸井の「政治的ではない」という政治性(脱政治性)

 

「いいね」とは共同幻想に半ば接続された対幻想だ。

 

 

選挙やデモといった非日常への動員ではなく、

日欧の労働の延長戦上に政治参加の回路を開くことでポピュリズムのもつ祝祭性を相対化する試みでもある。

 

現在のインターネットは人間を「考えさせない」ための道具になっている。

 

インターネットは発信に値するものをもっている人間はほとんどいないことを証明してくれた。 

 

 

スロージャーナリズムと遅いインターネット

 

 

「他人の書いた記事に対して、後出しジャンケン的にマウンティングすることがインターネットのインタラクティブ性ではない」

 

いまの「速すぎる」インターネットに流されると、それは素手で触れているだつもりで、単に考える力を失ってしまうことになる。

 

 

 

 

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「遅いインターネット (宇野常寛)」

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平成という「失敗したプロジェクト」。

「平成」という改革のプロジェクトはなぜ失敗したのだろうか。

 

リオ五輪閉会式の引き継ぎマリオ。)ここにはなにひとつ未来がない。

日本は過去にしか語るべきもののない国になってしまったことを告白しているように思えた。

 

あの新国立競技場は、かつての戦艦大和のようなものだ。

 

オリンピックという他人の物語を語るよりも、

自分の物語を自分で走ることのほうに関心がある。 

 

フェイクニュースを人々が信じるのは、それが正確な情報だと判断するからでなく、それを信じたいからだ。 

 

村上春樹「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による「精神の囲い込み」のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。いろんな檻というか、囲い込みがあって。そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」

 

民主主義という名の宗教は、ーーー、新旧の世界の分断を加速する装置にしかなっていない。民主主義を改良する必要がある。

 

民主主義が自由と平等に資する可能性が低くなったいま、ポピュリズムのリスクを相対的に低減できる意思決定の回路を導入することだ。

 いま必要なのはもっと「遅い」インターネットだ。

 

他人の物語に感情移入することよりも、自分の物語を語ることの快楽が強いことに気づいてしまった。「他人の物語」を享受することによって個人の内面が醸成され、そこから生まれた共同幻想を用いて社会を構成してきた。

→フェスの動員は伸びる。21世紀は「自分の物語」が台頭する時代なのだ。人々は自分だけの体験を求めて現場に足を運び参加するようになる。

虚構そのものの弱体化。 70年代、革命を起こして(政治的に)世界を変えることから、(文化的に)自分の内面を変えることで世界の見え方を変えることへ...

 

 

思考の補助線として見田宗介は戦後日本史に「反現実」を措定した。

理想と現実、夢と現実、虚構と現実 を対置した。

大澤真幸は「虚構の時代」の終わりを1995年に設定した。

 

世界を視る目が養われていなければ、たとえ世界の果てまで旅しても何も見つけることはできないのだ。

 

ディズニはー、砂糖菓子のように甘い多文化主義の夢を見せているのだ。

 

もし"民主制"になんらかの価値があるとすれば、それは崇めなくてもよいからだ。

 

 

 

後編は<吉本隆明篇>で、別ポストに。

 

 

 

 

 

 

 

「7期連続最高益 キーエンス、高収益の秘密」(2019年5月8日 日経新聞)

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工場の自動化に不可欠なセンサー機器。

 

従業員の平均年収は2088万円。

上場企業の平均値の3倍超と屈指。

 

営業担当者の成績ランキングが常に公表され、一定以下の順位にとどまると個別面談を受けることもある。

 

営業車にはGPSが付いており、予定時間と結果が10分ずれた際、上司に理由を問いただされた」(地方の営業担当者)。労務管理は厳しい。

 

緻密な分析を基にした「データ営業」こそが同社の特徴。

営業面では「顧客への電話は週に何回がもっとも商談に結びつきやすいか」といったデータを製品分野ごとに毎日集計し、妥協せず無駄を省く。飛び込みなど非効率な営業はしていない。

 

営業は勤続平均12.2年。

 

 

「レボリューション -米国議会に挑んだ女性たち-」(Netflix)

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ブロンクスの根性ある新人。アレキサンドリア・オカシオ・コルテス。

 

 

(以下、ビジネスインサイダーより引用)

2018年、アメリ中間選挙

29歳で史上最年少女性下院議員となったアレクサンドリア・オカシオ・コルテス(AOC)は、11期目を目指すベテランのジョセフ・クローリー現職議員を予備選で破り、一躍スターに。

通称AOCは、プエルトリコ出身の母とニューヨークのブロンクス出身の父のもとに生まれ、ウェートレスやバーテンダーの仕事をしながら、清掃員として生計を立てていた母親を経済的に支えていた。オカシオ・コルテスのような労働者階級の「普通」の女性4人が、富と権力が必要とされる政治の世界で奮闘する様子は、全米で共感を呼んでいる。

 

自信のある強い女性は反感を買う

 実際にアメリカで行われた研究では、女性は職場でも自信と謙虚さのバランスをとらなければ、バックラッシュ・エフェクト(反発の効果)が起きてしまうことが示されている。謙虚すぎると実績を見過ごされてしまうが、自信を示しすぎると、女性のジェンダー・ロールやあるべき姿に当てはまらないとして、周囲の反発が起きるのだ。

また、2018年に発表された最新研究では、女性はこのような反発を恐れて、実績に自信がある場合でも、自己評価をあえて下げていることも明らかになっている。毎日、公の場で有権者や関係者に自分を“見せる”仕事である選挙活動では、このようなバイアスを乗り越えなければならない。

 

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「今の議員が何もしないから」

 

良い民主党員と、そうじゃない民主党員がいる。

 

 

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状況と戦っている女性に憧れる。

彼女たちは皆、輝いている。

 

 

「コラムの切り口 (小田嶋隆)」

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書店でなかなか見つからなかったのは、ミシマ社の企画だから。

今年の3月新刊なのだね。

 

 

分析を装い、本音をぶちこむっ

 

#駅前の呼び込みみたいなダミ声

 

#スネに傷持つ身として、出所後の人生を寡黙に生きていく男

 

 

夫婦別姓を認めない民法750条が憲法違反であるのかどうか争う訴訟

→15人中3人の女性裁判官は全員が「違憲」の反対意見

問われているのは、「同性か別姓か」ではなくて、「一律か自由か」を選ぶ作業だということどうして自分以外の人間が本人の生き方を選択する自由を許容できないのであろうか。

 

 

マクナマラは、前線に散開する小隊の活動を、作戦行動ごとに詳細に評価するプログラムを作成。

 

#相撲で負けたときの地面の(砂の)味だ

 

 

笑っていいとも!」は、1982年10月にスタートした。

(開始当初から)ひとっかけらの「社会性」も帯びていなかった。

いいともは、新聞の一面から五面までの記事をほとんどすべて蹴飛ばした世界で番組を回していた。見事なばかりにお馬鹿な非教養番組だった。

 

 

 

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「ア・ピース・オブ・警句 (小田嶋隆)」

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昔、吉本隆明すごいなあ、と思っていたけれど、

小田嶋さんは、より、卑近な問題を平易な言葉で洞察する街場のソクラテス

いや、お茶の間の(テレビの前の)巨人。

小田嶋隆さんの言説を信用している。

 

日本人は誰も責任を取らないで済む対応の決済を好む。

というよりも、われわれは責任を分散させるために会議を催している

 

少子化対策として、三世代同居を推し進めるみたいな住宅政策が、本当に実行に移されるとは思っていなかった。(日本会議のパンフレットの中に、わが国の「婚外子の比率の低さ」を示すデータが出てくる)

 

我々は「起こってしまったこと」には反対しない傾向を備えた国民だ。

 「いまこうしてあること」には、ほとんどまった疑問を持たない。私たちは、現状肯定的な国民なのだ。

 

ひとつ例を挙げれば、

テロについて、もっぱらその発生原因に注目してものを言っている人間と、その対策について語っている人間の話は、決して噛み合わない。

 

別の言い方をすれば、この問題は、「どうして日本のおっさんはダメなのか」という問いとしてでなく、「どうして日本社会は男をダメにしてしまうのか」という問題として考えた方が建設的だということだ。

 

 

彼らは、長谷川豊氏の失敗を言葉のチョイスの問題だと、本気でそう考えている。

 

彼ら本音主義者たちは、市場主義と競争原理と弱肉強食の自然淘汰こそが、真に世界を動かしているリアルな動作原理であり、効率を正義とする鉄血のリアリズムを貫徹しなければならないと信じる。

 そのため、彼らは本来は経済の論理であり商品を扱うための原理である市場原理や競争原理を、人間の生命にそのまま適用してしまう。古くなった部品を廃棄し、壊れた歯車を捨てるみたいにして、年老いた人間や障害を持った人間を排除する思想が誕生する。

 弱い者に手を差し伸べたり、病めるものを癒すために時間と費用を費やすことは、世界の効率化を妨げ、淘汰原理を裏切る重大な違反ということになる。

 

教育勅語は、単に効力を失ったのではなく、より積極的に、教育現場から「排除」され、「追放」された過去の亡霊だ。 

 

 

"個"よりも"集団"が優先されなければならず、

 

 

東アジアの政治家にありがちな身内への甘さが招いた不祥事

→自らの過ちを認めないために行政を歪め、事実を隠蔽し、現実に直面しないために国会を歪めている。

→ミスを認めず改めないばかりか、ミスを指摘する人間を攻撃している

 

そういう子供たちは、やがて文章を読解する作業そのものを憎むようになり、最終的には論理を操る人間に敵意を抱くタイプの大人に成長する 

 

政治向きの発言や議論を「退屈」とみなす態度こそが「クール」な現代人の証であるマナー

 

言葉というコミュニケーションツールへの基本的な信頼感が損なわれていることの原因の一部は、

 

困ったことや腹の立つことに対して、人々が声をあげなくなれば、その分だけ世界は確実に窮屈になる 

 

誰かを落とすための一票だってある

 これが、戦略的投票というやつだ。

 

「論争的な場所」に関与せねばならない機会を何よりも恐れているからだ

 

無駄な努力は人間を浅薄にすると思っている。

有害だとも考えている。

 

 

 

 

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「多事奏論_自由と萎縮 ーありもしない危機?ご冗談をー(編集委員・高橋純子氏)」(2019年10月16日 朝日新聞)

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朝日新聞編集委員高橋純子氏。

署名入りで真っ向から腐った権力と向かい合う彼女のスタンス、文体は、同じ問題意識を持つわたしたち有権者に勇気を与えるものである。

 

 

宮田亮平・文化庁長官(前東京藝大学長・金属工芸家)が、10/4NHK「チコちゃんに叱られる!」に出演。

あいちトリエンナーレへの補助金不交付を決定した文化庁に対する批判が高まる中での放送。

 

番組のキャラクター、カラスのキョエちゃんに宮田氏(宮田亮文化庁長官)が説いている。「人々はすべて芸術家なの」。ならばなぜ不交付を決めたのか。

 責任者として公の場で経緯を説明し、自身の考えを述べるべきだろうと箸を持つ手が震えたが、...

 

顔面を押さえつけられている。大きな手だ。かろうじて息はできるが、このままだと窒息させられるかもしれない。放せ。のどの奥から声を絞り出し、体をばたつかせて抗する。大きな手の主は半笑いで周囲に言い放つ。「ほら、こんなに元気に暴れておられるじゃないですか。『窒息しかかってる』なんてありもしない危機をあおるのは、この人に失礼ですよ」ー。7日、安倍晋三首相65歳の国会答弁を聞いていたら、脳内でこんなイメージ映像が流れた。

 

首相は言う。

「安倍政権に対する連日の報道をご覧頂ければお分り頂けると思う。萎縮している報道機関など存在しない」

 

 

 

「絶望に追い込まぬため_藤田孝典氏、斎藤環氏」(2019年6月14日付 朝日新聞)

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藤田孝典氏・ほっとプラス代表理事

「一人で死ね」という怒りは自然な感情だと思います。しかしその怒りをそのまま社会へ流して憎悪が広がれば、孤立感を抱く人たちが「やはり社会は何もしてくれない」と追い詰められるかもしれない。いまある分断が広がるだけです。

 

川崎の事件も、元農林水産事務次官の事件も、日本社会に根強い「一つだけの価値観」に苦しんだ末の犯行であるように思えてなりません。

 「男は働いて稼ぐもの」「家庭問題は自分で解決する」という価値観は、いまだに社会規範のように捉えられています。

 

 

斎藤環氏・精神科医

きこもりの当事者は、いわば自分自身を社会から排除している人々です。自己否定的で、自身を「価値のない人間」と思い込んでいます。今回の事件を受け、ある当事者は「私は社会に要らない存在だから死んだほうがいい」と言いました。「私も親に殺されるかもしれない」とおびえる人をもいます。いま社会に必要なのは「死ぬな」というメッセージだと思います。

 

特定の人々を偏見で排除するのではなく、社会の同じ一員として向き合う。たまたま困難な状況にある、まともな人というまなざしで見ることが、必要ではないでしょうか。

 

 

小田嶋隆氏・コラムニスト

「犯人を擁護したのではない。それが不安定な感情をかかえた人への呪いの言葉になることを憂慮したのだ」とフォローするツイートを発信しました。

 

「人間の生の感情を重視し、そこに理性や倫理といった基準を持ち込むことを憎む」彼らは、むしろ「反知性主義者」と呼ぶべきなのかもしれません。

 

一方、この事件で対照的な言葉を発したのが松本人志氏です。

犯人を「不良品」にたとえました。人間を工業製品の文脈でとらえている意味で、ナチスドイツの優生思想につながる言葉です。しかし、彼の言葉は凶悪犯を罵倒しただけで、中高年のひきこもりを攻撃したわけではない、と周囲の援護を受け、本人も謝罪しませんでした。

 

思うままに怒りを発散できていた今回の流れのなかで、「少し落ち着こうよ」といった藤田氏の言葉は、正論であるがゆえに、かえって怒っている人々の逆鱗に触れました。逆に、単純な怒りを代弁する形になった松本氏には喝采が送られます。

「ぶっちゃけた本音を言えるヒーロー」を持ち上げる下地があるのでしょう。 

 

この国では今、差別的言辞で非難されるリスクより、正論を口に出したことで罵倒されるリスクのほうが大きくなっています。リンチに熱狂する群衆をたしなめると今度はその人間が標的になる。そんな気持ちの悪い国に変わる前兆を垣間見た気がしました。